あと1分
今なら俺は、確信を持って言える。賭けたっていい。
今から1分以内に、俺達は3度めのキスをする。
もしかしたら俺の人生初めてのキスの相手は父親だったり母親だったり妹だったりしたのかも知れないが、少なくとも俺の記憶にある限り、それはあの閉じ込められた灰色の空間の中での話だった。
その時の事はあまり思い出したくない。白雪姫、sleeping beauty、そんな言葉に煽られて、俺は柄にもなく王子様役を演じたという訳だ。しかもあれは夢だったという可能性も捨て切れない。だからあれはカウントしない事にしている。
という事は、俺の記念すべき初めてのキスは何と男相手だという事になる。古泉だ。こればかりはノーカウントという訳にはいかない。何故なら、そこには俺の明確な意思が含まれていたからだ。
好きだと言われて、返事の代わりにキスをした。
何故そこでキスを選んだのかというと、―――何でだろうな。その時の俺はそれがベストだと思ったんだろう。
好きだと返せる程明確な想いを持っていた訳ではなかったし、何よりもその言葉を口にするのが躊躇われた。キスした後でもしかしてこっちの方が余計に恥ずかしかったんじゃないかと思ったけれども、嬉しそうに笑う古泉を見ていたらどうでもよくなった。
そして2度目は、その翌日、朝比奈さんの着替えを廊下で待っている時。
やたらどうでもいい事を―――いつも大して内容のない事を得意の回りくどい表現を駆使して喋り捲る奴だが、その時の話は本当にどうでもいい内容だった―――べらべらと喋る奴の話がいつの間にかループしていて、俺は驚いたね。
こいつまさか、今まで何喋ってたのかわかってないのか?
よくよく古泉の顔を見てみれば、そこにはいつもの忌々しいにやけ面ではなく、何と言うか夢の中にいるような、締まりのない表情があった。
そこで俺は悟ったのだ。古泉が、未だかつてない程浮かれている事を。
それだけだったらまだいい。だが俺は気付いてしまった。奴が、本当の意味で信じてはいないのだという事に。
もしかしたら夢かも知れないとか疑っているのだと思うと、だんだん腹が立って来た。いや、単に呆れていただけかも知れない。
この野郎。冗談じゃない。
俺の決死の覚悟を、そんな不明確で曖昧な記憶に埋もれさせるつもりじゃないだろうな。どうせ喜ぶならしっかり地に足をつけて喜びやがれ。
そう思った俺は、不本意ながらも奴に2度目のキスをくれてやった訳だ。
いいか、俺がしたくてしたんじゃないぞ、お前がして欲しそうだったからしてやったんだ、と念を押すのは忘れなかった。
しかし奴は聞いていなかったに違いない。いや、聞いていたかも知れんが、ちゃんとその意味を理解していたとは思えなかった。
何故なら、その時の奴の顔といったら。
あの忌々しい対ハルヒ用の謎の転校生仕様な微笑じゃないのは評価してやってもいいが、だらしなく緩み切ったような顔はやめろ。他の奴が見たら何事かと思うぞ。
まあ、俺の前だけなら、何の問題もないが。俺が少し居た堪れない気分を味わうだけで。
それが、昨日の事だ。
そして、今日。ハルヒ達は帰った。部室には俺と古泉の2人しかいない。珍しく接戦だったオセロも、最後は俺が大差を付けて勝った。
そろそろ帰るかと長机の上を片付けた後、床に置いた鞄を手に取る。
いつの間に近付いていたのか、俺の視界の端に、古泉の足が割り込んで来た。
ゆっくりと体を起こしながら、足元から徐々に視線を動かす。
俺達の他に誰もいない部室、古泉の告白、2回のキス、近付く距離。そこから導き出されるのはたった1つ。
今なら俺は、確信を持って言える。賭けたっていい。
今から1分以内に、俺達は3度めのキスをする。
俺が顔を上げて、古泉と視線が絡むのが、カウントダウン開始の合図だった。
男にしてはやけに綺麗な指先が俺の頬に触れた。そっと撫でるような動きで顎のラインを辿り、唇に到達する。
古泉はじっと俺を見ていた。俺も視線を外さない。薄茶の瞳に映り込む自分の姿を真っ直ぐに見つめながら、俺は心の中で、刻々と過ぎ去る時間を数えていた。
おい、もう30秒は経ったぞ。するならさっさとしろ。このままだと俺は賭けに負けてしまう。誰に負けるんだ?この場合古泉か。
ふ、と古泉の唇が綻ぶ。その時初めて、古泉がいつになく真面目な顔をしていた事に気付いた。
唇が、開く。
「キス、しても、いいですか?」
俺はがっくりと肩を落とし―――はしなかったが、そんな気分だった。
ああ苛々する。
花も恥らう女子高生、なんて訳でもないんだし、お前も男ならもっとこう、ガッと押しが強くてもいいんじゃないか?
だけどここで黙っていたら話が全く進まない。このままだと奴は俺の同意を得るまでずっと待っているんだろう。
だから俺は一言、ああ、と頷いてやった。しょうがねえな、と続く筈だった言葉は心の中に止めておく。今はほんの1秒が惜しいからな。
古泉は嬉しそうに微笑んで、ゆっくりと唇を近づけて来た。
吐息が混ざる距離で一瞬動きが止まり、その瞼がそっと下ろされる。だから俺もそれに倣って目を閉じた。
漸く唇が触れたのは、俺が70まで数えた時だ。
ああもう、1分過ぎちまったじゃねえか。幾ら何でも時間を掛け過ぎだろう。しかも軽く押し付けられるだけの温もりは、75秒の段階で離れていった。あれだけ掛かって実際キスをしていたのは5秒かと思うともう何も言う気になれない。
賭けは俺の負けだ。お前が、そこまでちんたら動く奴だったなんて思ってもみなかった。
目を開けて古泉を見ると、奴はやっぱり嬉しそうに微笑んでいた。
何がそんなに嬉しい。俺は賭けには負けるしじれったいしで散々だ。それにお前がそんな風に今までと違って妙に余裕を見せるのも腹が立つ。
畜生。
悔しいから、本当は俺がキスして欲しかったんだなんて、絶対に言ってやるもんか。