5分前の動揺
全く、一体俺はどうしちまったんだ。
嘘だそんな筈はないと思っても、悲しいかな、どうやらこれが現実らしい。
何の変哲もない平和な1日、の筈だった。担任の岡部はやっぱりジャージだし、授業中に襲い来る睡魔も昼休み後は更に激しくて5限の内容なんて殆ど覚えていないし、今度は何を企んでいるのかは知らないがハルヒはホームルームが終わるや否や、あっという間に姿を消したし、とにかく何もかもが普段通りだった。
だから俺も普段通り、ハルヒが何かやっかい事を持ち込まない限り特にする事もない団活に向かうべく立ち上がったのだ。
いつも思うのだが何故俺はこうして毎日律儀に部室に足を運ぶのだろう。この分じゃハルヒは暫く顔を出さないだろうし、だとすればやる事は奴とボードゲームに興じるくらいだ。無断で帰ればハルヒの罵倒と奴の説得を受けるのは目に見えているが、結局俺が何をしようとハルヒが突っ掛かってきて奴がハルヒの精神の安定が云々と講釈をたれてくれる事には変わりがない。長門は何も言わないだろうし、朝比奈さんは―――ああそうか、部室に行けば朝比奈さんがお茶を淹れてくれる。これは確かに重要なメリットだろう。だとすれば行かない訳にはいかないな。よし、朝比奈さんが手ずから淹れてくれるお茶の為だけに俺は今日も部室に行こう。
―――というように、今までならそう深く考えず、暇だからというだけで足を運んでいた部室に行く理由を探すようになったのにはそれなりに訳がある。しかしその訳については今はあまり話したくない。何故なら俺は、それを聞かなかった事にしたいからだ。
まあいつか話す機会もあるかも知れない。それまでは放っておいて欲しい、頼むから。
異変が起こったのは、ここ最近の儀式となっている部室に向かう理由探しを終え、鞄を取って教室を出ようとした時の事だ。
廊下に足を一歩踏み出した瞬間、あのう、と控え目な声が耳に届いた。
「少し、時間を貰えないかな……話したい事が、あって」
まず俺が背後を確認したのは、その女生徒に声を掛けられる理由に思い当たらなかったからに他ならない。しかし俺の後ろには誰もいない。という事は、彼女は俺に声を掛けたという事になる。
俯きがちに俺の前に立ったその女生徒は、名前は何といったか―――覚えていない。顔には何となく見覚えがある気がするが、周囲のクラスの生徒ではない。はて、どこで会ったのか。
「あ、私、9組―――古泉君と同じクラスで、」
続けて発せられた彼女の名前は何となく記憶の奥底に引っ掛かっていなくもなかった。谷口曰くのAマイナー、いつだったか谷口が9組じゃあの子がいちばんだな、と廊下ですれ違った時に言っていた事を思い出す。
俺の記憶力もそう酷いものではないな。まあこれが男相手だったら名前どころか顔も覚えていない自信があるが。理数クラスには女子が少ないというのも理由の一つかも知れない。
しかし俺は彼女と話した事がない。当然だろう、俺と古泉のクラスは離れているし、理数クラスとは授業の内容も全く違うから授業で一緒になった事もないのだ。
では何故彼女が俺に声を掛けたのか。
この謎を解く鍵は彼女の台詞の中にある。
要するに、古泉だ。
俺は奴の名前が出た時点で、話の内容とやらは大方予想がついていた。したがってこの段階ではまだ異変とは言わないかも知れない。しょっちゅう、とは言わないまでも、たまに起こる事態なのだから。
いつもと違うとすれば、相手が9組の人間だという事くらいか。これはちょっとレアパターンだ。まあ彼女が、情報統合思念体やら機関やらとは関係がない、という仮定の下にではあるが。とはいえ、その辺りと絡んでいるならこんなに人目につくところで俺を呼び出したりはしないだろうから、この仮定は間違っていない筈だ。
どうやらいつの間にか、俺と古泉がよくつるんでいるのは周囲にも広まっているらしい。正確に言えば、ハルヒを始めとするSOS団のメンバーがつるんでいるのは、というべきだろうか。
お陰で俺の周りにはこういう輩がたまに訪れるようになった。古泉君って彼女いるの、手紙渡して欲しいの、呼んで来て貰えないかな、エトセトラエトセトラ。
直接言えよ、と言いたいのに言えないのは―――まあ、俺が結局女の子には弱い、という事だろうか。
という訳で、今回も多分に漏れずその誘いを断る事ができないまま、俺は彼女の後について寒風吹き荒ぶ中庭まで移動する羽目になった。
真冬だぜ。せめて校舎裏とかにして貰えないだろうか、と思っても口に出さなかったのはとっととこの用件を終わらせたかったからだ。
さて、俺の葛藤を理解して頂けるだろうか。思いもかけず「話す機会」がやって来てしまったようだ。
ただのメッセンジャー役ならまあ面倒ではあるが頼まれてやらなくもない。大体俺は中河のあの気が狂ったとしか思えない愛の言葉を音読した男だ、手紙を渡すくらいなら大した事はない。
しかし、そうできない事情というものがある。
恐らく俺だけが知っている、彼女の恋が実る可能性は低いという事情が。
つまり俺は本来、彼女にこう進言するべきなのだ。
やめといた方がいい、あいつはホモだ。
しかしこの言葉は未だ一度たりとも言えた試しがない。
今更だが古泉はモテる。こうして俺に仲介を頼む女子が後を絶たないという事からも判るだろう。悔しいのであまり認めたくはないが、無駄に顔が良くて無駄に頭が良くて無駄にスタイルがいいのだから、当然といえば当然かも知れない。
だがその古泉は本人曰く熱烈な恋というものをしていて、しかもその相手が男である俺だというんだから世も末だ。
俺の妄想じゃないぞ。本人が俺にそう言ったんだ。恐ろしい事にどうやら冗談ではないらしい。それも一度や二度じゃない。このペースでいけば確実に耳にタコがびっしりできるだろう。
ちなみに俺は古泉の再三の告白を全て聞かなかった事にしている。酷い男と罵るなかれ、奴が自分で聞かなかった事にしてもいいと言ったのだ。
しかしそうは言っても忘れられる訳じゃない。お陰で俺はここ最近、古泉との間に流れる沈黙がやけに重苦しいものに感じられるのだ。
これで判って貰えただろうか。俺が部室に行くのに、理由を探さないとならなくなった訳を。
要するに、古泉となるべく顔を合わせたくない。しかも告白の仲介などしようものなら、既に同じ状況に陥った事が数回あるので判るのだが、その時に奴が放つ台詞といえば、僕が好きなのはあなたなんですとかあー嫌だ聞きたくない言いたくない。
願わくば、彼女の話というのがハルヒへの苦情とかだったらいいのに、と僅かな希望に縋ってはみたのだが。
「あの、古泉君と仲良いよね。それで……」
ああ、やっぱりこうなるのか。恨むぜ古泉。
部室の扉をノックした時、どうぞ、と返事をしたのは明らかに古泉の声だった。
畜生。やっぱりいるのか。まあいるだろうな。奴は俺に会う為に毎日部室に顔を出すのだと言い切りやがったのだから。ハルヒはどうした。世界の安定を図るのがお前の使命とやらじゃなかったのか似非超能力者。
古泉が返事をするという段階で、とりあえずハルヒと朝比奈さんの不在は確定だろう。あの2人がいる時には奴はでしゃばって返事をしたりはしない。
という事は、俺はこの部室に足を運んだ理由を失ったという訳だ。俺は自分の不運を嘆くね。
しかし今更ここでUターンという訳にもいかず、渋々扉を開けると、予想通りというか何というか、そこにいたのは古泉と長門の2人だけだった。古泉が忌々しいにやけハンサムな笑顔を俺に向け、長門は膝の上の本から顔を上げもしない。これも予想通り。
「今日は随分遅かったですね」
古泉の視線を感じながら、しかし目は合わさずに、無言でパイプ椅子に腰掛けた。ここが俺の指定席と化しているのだが、この場所は古泉の真向かいにあたる。だから俺は顔を上げない。今だけに限らないが今現在は特に、俺は古泉の面を見たくないんだ。
出来る事なら会話もしたくない―――と思っていたのだが、俺はふと今日の異変を口にしたくなった。
奴がどんな顔をするのか、もしかしたらいつもとは違う反応が見られるかも知れない。さっきからずっと俺の心を占めていた困惑というか苛立ちというか焦燥感というか、まあそういう類のものが好奇心に負けた、というところだろうか。
どうやら古泉は詰め将棋をしていたらしい。頬杖をついて長机の上の将棋盤を眺める振りをしながら僅かに視線だけを古泉の口元に向け、俺は口を開いた。
「さっき、お前のクラスの女子に呼び出された」
「それはそれは、」
ご迷惑をお掛けしました、と古泉は相変わらずのにやけ面で笑う。モテる男の余裕、だろうか。いつもと同じ用件、つまり俺がただのメッセンジャーだと決めてかかっている。俺がお前と視線を合わせようとしないのも、いつもと同じ理由だと思ってるんだろう?
確かに仲介を頼まれた時の俺は機嫌が悪い。面倒な事を断りきれずに引き受け、引き受けたからにはそれを伝えない訳にもいかず、その度にお前の忌々しい面を見ながら忌々しい台詞を聞かなきゃならないのだから。
だが残念だな、古泉よ。今日のは明らかに異変なんだ。俺が苛立っているのはそういう理由じゃない。
「俺の事が、好きなんだとよ」
「は、」
その場の空気が、ピキン、と音を立てて凍りついたような気がした。
歩を持ったまま動きが停止している古泉はともかく、何でお前まで本から顔を上げて俺を凝視しているんだ長門。言っとくが俺の妄想でも妄言でもないぞ。
まあ、無理もない。誰よりも驚いたのは俺だ。
凍て付くような風が頬を刺す中、古泉君と仲良いよね、それでいつも見てて、と前置きした彼女は、俺にこう言ったのだ。
「キョン君の事が好きなの」
てっきり古泉宛に手紙だの伝言だのを押し付けられるものだと思っていた俺は、9組の女子にまでこの間抜けな渾名が定着しているのかと溜息をつく暇もなく、予想外の発言に思わず反射的に聞き返していた。
「え、俺?古泉じゃなくて?」
生まれて初めて受けた異性からの告白に対する第一声が、かくも間抜けなものになるとは思わなかった。俺だって健全な男子高校生だ。可愛い女の子に呼び出されて告白される、なんて夢を多少抱いていてもおかしくはないだろう。ちなみに生まれて初めて受けた同性からの告白、は聞かなかった事になっているので、それに対する第一声についてのコメントは差し控えさせて頂く。
しかしそんな台詞にも動ずることなく、こくりと頷いた彼女に対して、俺はあろう事か、ぽかんと口を開けたまま固まってしまったのだ。我ながら告白への反応としてはいかがなものかと思う。
ああ、くそ。もう少しまともな対応のしようがあった筈なのに。
5分前の自分の行動を反芻して顔を顰めた俺の前で、古泉は僅かに苦いものを食べたような顔をして顎に手をあてた。
「そうですか、9組の……迂闊でした、流石にそこまでは手を回していませんでした……5組の周囲だけでは足りなかったようですね」
おい。それはもしかして独り言か?それとも俺に聞かせたくて言ってるのか?お前は一体5組の周囲に何をしたんだ。
「何の事でしょう」
聞き咎めると、何事もなかったかのようににこりと微笑む。
だが、俺には判った。伊達にお前らと1年近くも付き合っている訳じゃないんだ。お前の表情の変化なんて長門に比べりゃ格段に判りやすいんだぜ。
整った顔に貼り付けた笑顔に、僅かな綻びが見える。
古泉は、動揺している。
ざまあみろ。俺ばっかり動揺させられてたんじゃ割に合わないからな。
それでも今のお前の動揺なんて、5分前の俺の動揺っぷりに比べりゃ可愛いもんだ。
だから俺は追い討ちをかけてやる事にした。俺の予想通りの台詞を、お前が口にしたからだ。
「で、あなたはどうしたんです?」
「…………さあな」
古泉は虚を衝かれたような顔をして、さっきから一手たりとも進んでいない盤面に目を落とした。その指先が、忙しなく駒の表面をなぞっている。
知りたいか。知りたいだろうな。だけど教えてなんかやるもんか。告白の返事だけじゃない。その時の俺の動揺を、だ。
俺がどう返事したかなんてその内嫌でも判る。だけど絶対に判られては困る問題があるのだ。
何せ俺は奴の告白を聞かなかった事になっている。その癖これは、非常に、拙い。
つまり、5分前。ごめんね突然、いや別に、付き合ってる人とかいるの、いやいないけど、と初々しい会話を繰り広げ、じゃあ好きな人とか、という台詞が発せられるに至った瞬間。
俺の脳裏を過ぎったのが、誰か、なんて。
ああ考えたくもない。気のせいだ気のせい。
俺はれっきとしたヘテロタイプであって、おい長門、そんな目で俺を見るんじゃありません。
「……………ユニーク」
小さく呟かれたそれは俺に告白なんぞした彼女に対する言葉か、珍しく動揺している古泉に対する言葉か、それとも5分前の動揺を引き摺り続ける俺に対する言葉なのか、どれなんだ長門よ。
もし俺なんだとしたら、俺は不本意ながら同意する。奇妙というか珍妙というか信じ難い事態に陥ってる自覚があるからだ。
全く、一体俺はどうしちまったんだ。
嘘だそんな筈はないと思っても、悲しいかな、どうやらこれが現実らしい。
5分前からずっと、古泉の顔が頭から離れないなんて、そんなのありかよ。