ある晴れた日のこと
毎日放課後に集まる部室で何をやっているのかと言えば、実は大した事はしていない。
朝比奈さんの麗しい姿を眺めたり、長門の殆ど変わらない表情を読んでみたり、ハルヒの予想斜め上を遥かに超えていく思いつきに溜息を吐いていたりするだけだ。
だから残りの時間は、大抵において古泉とボードゲームに興じる事になる。別に好きでやってる訳じゃない。ただの暇潰しだ。
そして、古泉はやたらとボードゲームに弱い。滅茶苦茶弱い。顔も良くて頭も良くてスタイルだって良い癖に―――認めるのは癪だが、これは事実なので認めるしかない―――、何故だか悲惨なまでに弱い。
だから俺は、適当に相手をしていても勝ってしまう。これだけ勝ち甲斐のない相手も珍しい。
そこで、古泉を観察してみる事にした。何故こいつがこんなに弱いのかを検証しようという訳だ。
だが、それは思いの外つまらないものだった。あまりにもわかりやすいのだ。
定石というものを知らない。目の前の敵を排除する事に終始し、後々の事を全く考えていない。長考する事は稀で、俺が打った数秒後にはもう駒を動かしている。オセロであろうが将棋であろうが囲碁であろうが全て同じだ。これじゃ勝てる訳がない。
では、これだけ弱い癖に、何故こいつは楽しそうなのか。それが次の疑問だった。
こいつはいつも忌々しい微笑を湛えたまま、ゲームをする。どれだけ悲惨な敗北を期そうとも、常に笑顔だ。ちっとも悔しそうじゃない。笑顔がこいつの定番スタイルではあるが、俺ならここまで惨敗すれば流石に悔しくて二度とこんなゲームするもんかと思うがね。
一体何が楽しいのか。単にボードゲームが好きなのか。それとも何もする事がない部室で、誰かと話していられればそれでいいのか。
そういえば、古泉が他の奴らとゲームをしているところは見た事がない。というか会話すら稀だ。ハルヒ専属イエスマンな奴はハルヒの言う事にはいちいち惜しみない賞賛を与えながら頷いているけれども、長門や朝比奈さんと日常的会話をしているところなど、殆ど記憶にない。あの2人と話している姿といえば、ハルヒ絡みでややこしい事が起きた時くらいしか思い出せない。
という事は、古泉とボードゲームをしたり、日常的会話をしたりするのは、必然的に俺だけという訳だ。
その事に気付いた俺は、悪い気はしなかった。もっと言えば、ほんの少しばかり、優越感に似たものを感じた。
古泉との付き合いももう随分になる。その間俺達は毎日のように顔を付き合わせていて、時にはとんでもない事件にも巻き込まれ、それを何とか乗り越えてきた仲だ。友人、と言ってもあながち間違いではないだろう。
谷口や国木田、ハルヒや長門や朝比奈さん達とはまた違う友人関係。
それも悪くないなと、俺は思っていた。
―――のだが。
どうやら俺は勘違いをしていたらしいと気付くのに、そう時間は掛からなかった。
理由は簡単だ。とにかくやたらと古泉の視線を感じた。
俺が部室でハルヒや朝比奈さんと話している時。向かい合ってボードゲームをしている時。果ては、体育の授業中、ふと校舎を見上げると、9組の窓から俺を見下ろしている時すらあった。
古泉は俺と目が合うと、一瞬視線を逸らそうとして、しかし思い直したようにいつものにやけスマイルでにこりと笑った。
始めは観察しているのかと思ったさ。俺はあまり信じちゃいないが、奴の言葉を借りるなら、俺は世界の「鍵」だ。ハルヒ共々監視されていても不思議じゃない。
だけどそれにしては、その視線がおかしい。長門のように純粋に観察を行う何の感情も窺えない瞳とは全く違う。
例えるならば、俺が朝比奈さんを見るような―――いや、それも違うな。そんな生半可なもんじゃない。
やけに熱の篭った、様々な感情が複雑に絡み合ったような、そんな視線だ。
そうだ、まるで。恋する乙女が、想い人に向けるような―――恋?
好き、なのか。あいつは。俺の事が。
そう思い至った時の俺の気持ちは―――落胆、ではなかった。
確かに俺は古泉と友情とやらを育んでいく事を望んでいた筈なのに。
驚きはしたさ。何かの間違いだろうとも思った。俺は男で、あいつも男で、だから気のせいだと、俺は自分で思っていたより相当自意識過剰なのだと、何度も考え直した。
でも古泉の視線はいつも俺を追っていて、俺が話し掛けると何か眩しいものでも見るかのように目を眇めて、ほんの僅かに目を逸らしながら、それでも笑顔は絶やさなかった。
だから俺はますます疑惑を強め、それでも裏切りだとか嫌悪だとかそんな感情は持たなかった。もしかしてこいつは俺の事が好きなのかと、一層奴の行動に注視していただけだ。
そして、決定的な出来事があった。
ある晴れた日の事だ。気持ち良いくらいに空が澄み渡っていた。
放課後部室に訪れた俺は、珍しく長門がいない事に少し驚き、コンピ研にでも顔を出しているのだろうか、あいつも楽しい事が見付かってよかったとほのぼのとした気持ちを抱きながら、窓に近付いて雲ひとつない青空をぼんやりと眺めていた。
その穏やかな陽気は睡魔を呼び起こし、俺は団長席に座り込んで、いつしかうとうとしていたのだ。
どのくらい時間が経っていたのかはわからない。ぼんやりとした意識の中で、微かなノックの音を聞いた気がする。入って来たのは、古泉だった。声でわかった。あなただけですか、とか何とか言っていたけれども、俺はただまどろみが気持ち良くて、返事をすることも顔を上げることもしなかった。
確か、寝ているのですか、と声をかけられたような。団長席に近付いて来た古泉は、俺の隣に立ち、そっと指で俺の髪を梳いた。
その頃には多少意識がはっきりしていたのだけれども、その指先の動きが心地良くて、目を閉じてされるがままにしていた。
すると古泉の指が額から頬を辿り、俺の唇に触れた。柔らかく、撫ぜるような動きで。
流石に擽ったくて、少し顔を捩ると、素早くその手が引っ込められた。何だ、もう終わりか。キスでもされるかと思ったぜ。
果たして奴はどんな顔をしているのかと思いながら、たった今目が覚めましたという風を装って、ゆっくりと瞼を持ち上げる。
「おはようございます」
そう言って笑った古泉は、また眩しいものを見るような瞳で、俺を見ていた。
瞳の奥に、その涼しげな笑顔に相応しくない熱を残して。
だから俺は、確信した。幾ら何でも友情しか感じていない男相手に、この行動はないだろう、と。
古泉は、俺の事が好きなのだ。
あの日をきっかけに古泉の気持ちを知ってしまった俺が、それからどうしたかと言うと―――どうも、していない。
不思議と嫌悪感は湧かなかったし、そうか奴の顔が近いのはその所為もあったのかと妙に納得した。
俺は古泉の事が嫌いではないし、まああれだ、意識されるとその気になる、というのが男の悲しい性な訳だ。
男同士、という点に引っ掛からないでもなかったが、日を重ねるとだんだんどうでも良くなって来た。
その程度には俺も奴の事が好きなのだ、と言っても過言ではないのだろう。俺は自分は至極ノーマルな性癖だと思っていたんだがね。世の中何が起こるかわからねえな。
でも、古泉が何らかのアクションを起こすまで、俺はどうする気もない。
俺は今の古泉との関係を気に入っている。古泉が望むならそれ以上の関係に進むこともやぶさかではないが、少なくとも俺は当分の間現状維持を図るつもりだ。
もっとも、もしあいつが何もしないまま諦めようとしたら、その時は全力で阻止する気ではいる。俺をその気にさせといて、敵前逃亡はないだろう?
古泉は、相変わらず俺を見ている。
多分奴の方が、男同士だとか世界だとかそういう事に捉われて動けなくなっているのだろうが、そんな事は知ったこっちゃない。あいつが自分でかたをつけなきゃならない事だ。
さあどうする、古泉一樹。
俺の事が好きなんだろ?
追いかけろよ。捕まえてみろ。
そう簡単に、捕まってやる気はないけどな。