僕の目には

 静寂に支配された部屋に、時折紙擦れの音が響く。僕が立てる音と、彼が立てる音だ。
 彼はソファに寝転がって、雑誌を捲っている。ちらりと横目で窺ってみたが、視界が黒いセルフレームから外れてしまった為に何の雑誌かまでは判らない。男性モデルが服を着て立っている写真がぼんやりと見えたから、漫画雑誌でない事だけは確かだ。彼が持ち込む雑誌としては珍しい類に入る。もしかしたら僕の部屋にあった物かも知れない。定期的に買っているファッション誌も全てに目を通す訳ではないから、一部を見ただけでは自分の物かどうか判断できない。
 他所事に気を取られている自分に気付き、密かに溜息を吐いた。僕は今、機関からの報告書を読んでいる。明日の会議に備え、今日中に読んでしまわなければならないからだ。そうでもない限り、折角彼が僕の部屋に遊びに来てくれている時に仕事をしようとは思わない。
 なのに、さっきから一向に進んでいない。
 床の上に敷かれたラグの上に座り込んで、彼の横たわるソファに背中を預けている僕は、背後の彼の気配が気になって仕方がないのだ。手にした書類の文字を目で追ってはいるけれど、大した量ではない筈なのに内容なんてちっとも頭に入って来ない。
 溜息を吐いて眼鏡を外し、鼻の付け根を軽く指で揉んだ。細かい文字を読む時だけしか掛けないのであまり慣れておらず、重みが気になるのだ。

「…………疲れたか」

 声に振り返ると、彼が僕を見ていた。ソファに腹這いになり、上半身を起こして体重を肘で支えている。ええまあ、と苦笑してみせて、再び眼鏡を掛けた。

「駄目ですね……集中を欠いているようです。全然進みません」

 愚痴っぽくなってしまうのは勘弁して欲しい。彼がいるのに仕事をしなければならない自分の不運を呪いたい気分なのだ。大体この書類は今日届いたものだ。彼を伴って部屋に戻ると、パソコンに添付ファイル付きのメールが届いていた。明日までに目を通しておけと言うならもっと前に送ってくれれば良かったのに。いっそメールチェックをしなかったと言い訳してしまおうかとも思ったが、見てしまったものは仕方がない。
 早く終わらせて彼とゆっくり過ごしたい。しかしこの状態ではいかんともし難く、僕は軽い絶望を覚える。
 このままでは悪循環だ。少し休憩をとろう。熱いコーヒーでも飲めばすっきりするかも知れない。
 立ち上がろうとして、彼がさっきからずっと僕の顔を見ている事に気が付いた。ふむ、と何かを考えるような表情で、しかし視線が外される事はない。

「俺には眼鏡属性はない筈なんだが」
「は?」
「いや何でもない。ただの妄言だ。忘れろ」

 言葉の意味を図りかねて首を傾げると、彼は狭いソファの上で器用に体を捩じって仰向けになった。その拍子に彼が読んでいた雑誌が床に落ちる。それを拾い上げようとした僕のフレームで区切られた視界に、彼の掌とブルーグレーのパーカーの袖が入り込み、その指が眼鏡をゆっくりと外す。
 目の焦点が合うのにほんの少しタイムラグがあった。
 見下ろせば彼は僕のセルフレームの眼鏡を指先で弄びながら、僕を見上げている。黒い瞳が真っ直ぐに向けられていて、視線が熱を持って絡んだ。
 こいずみ、と音もなく彼の唇が動く。
 その瞬間背筋を駆け抜けたのは、紛れもなく情欲だ。襟元から覗く鎖骨が、ダブルジップのファスナーを少し上げている所為で僅かに露出された腹部の滑らかな肌が、艶かしく僕の目にはっきりと焼きついた。

「…………誘ってるんですか?」
「お前にはどう見えるんだよ」

 その口から出たのは明確な否定ではなく、まるではぐらかすような。
 彼にしては珍しい台詞だが、決まっている、僕の目にはそうとしか映らない。

「凄くいやらしく誘ってるように見えます」
「じゃあそうなんだろ」

 だがいやらしくは余計だな、と呟く彼の唇を自分のそれで塞ぎ、その指から眼鏡を取り上げてテーブルの上に置く。
 いつの間にか床に落ちていた書類が、僕の膝の下でぐしゃりと音を立てた。
[20071206] ◆TEXT ◆TOP