おたんじょうびおめでとう

 ふんふんふーん、と鼻唄に合わせて黒のエプロンが揺れる。
 ご機嫌なそのメロディとは裏腹に、臨也の顔は真剣そのものだ。
 黒い双眸は一点に集中し、いつもなら両手の人差し指に嵌めている指輪を外した指が慎重に動く。
 最後の一文字を書き終えて、臨也は漸く息を吐いた。

「よし、でーきたっ!」

 白のチョコプレートには茶色のデコペンで『シズちゃんおたんじょうびおめでとう』と書かれている。臨也の手によって書かれたものだ。『おめでとう』の部分が少し文字間が詰まってしまったが、まあ許容範囲だろうと臨也は満足気にそれを眺めた。
 すらりとした指先がプレートを摘み上げ、生クリームと苺がたっぷり乗ったホールケーキの真ん中にそれを据える。
 五号サイズ、直径十五センチの白いホールケーキが立派な誕生日ケーキに仕上がった。もちろんホールケーキはスポンジから臨也の手作りだ。この日のために、わざわざ有名な料理教室に一ヶ月通った。四回の授業で繰り返し練習したデコレーションは完璧で、生クリームが美しい模様を描いている。
 今日は一月二十八日、金曜日。愛する静雄の誕生日だ。臨也は朝から仕事そっちのけでケーキ作りに奮闘していた。波江の冷たい視線などお構いなしだ。
 練習は繰り返した、だが本番は一回きり。長く続いた緊張から解き放たれて、臨也は改めて白いケーキを眺める。スポンジの焼き方から生クリームの絞り方まで拘りに拘ったケーキである。その仕上がりは臨也を充分に満足させるものだった。

 静雄は喜んでくれるだろうか。臨也が一ヶ月前から練習を重ね、想いの丈を篭めて仕上げた静雄のための誕生日ケーキを。

「……そろそろ仕事をしてもらってもいいかしら? これが終わらないと帰れないのだけど」

 背後から冷え切った声を掛けられても臨也は暫くケーキを眺めていた。
 溜息を吐いた波江が席に戻った頃に漸く、ケーキを用意していた箱に入れる。そうっとそうっと、静雄本人に触れる時よりも余程慎重な手付きで。
 最後に青いリボンを掛けて──白い箱に青いリボンが静雄のイメージだと思ったからだ──、臨也はそれを冷蔵庫に仕舞った。
 後はこれを静雄に渡すだけだ。静雄はきっと驚くだろう。照れ臭そうにちょっと視線を逸らして、もしかしたらありがとうなんて微笑んでくれるかも知れない──そんな反応を想像しながら、臨也は漸く溜め込んだ仕事に手を着け始めた。





「そろそろかな」

 携帯電話で時間を確認した臨也は、静雄の部屋の小さな冷蔵庫からケーキの箱を取り出した。
 畳の上に置かれたちゃぶ台にそれを置いて、少し角度を修正する。仕事を終えて部屋に入ってきた静雄に、最も綺麗に箱が見えるように。
 あと五分もしないうちに静雄はここに帰ってくる。臨也はそれをわくわくした気持ちで待っていた。静雄の最初の反応を見逃さない位置に膝を抱えて座り、片手間に携帯電話を弄りながら外の音に耳を澄ます。
 ややして、革靴が金属製の階段を上がってくる音が聞こえた。カンカンと硬質な音が徐々に近づいてくる。
 そしてコンクリートの廊下を歩く足音が、この部屋の前で止まる。
 ガチャリと鍵が開いた瞬間、どきりと心臓が跳ねた。どくんどくんと脈打つ心臓を宥めながら、感動の対面を待つ。
 短い廊下を歩き、居室に足を踏み入れた静雄が、臨也の顔を見るなりむっと顔を顰めた。

「おかえり、シズちゃん。誕生日おめでとう!」
「何で手前がいるんだよ」

 臨也は満面の笑みで祝福の言葉を述べたのに、静雄はいかにも不本意だという顔をしている。

「そりゃあシズちゃんの恋人としてはシズちゃんの誕生日を家で待つくらい当たり前でしょ?」
「ああ、誕生日か……って手前別に俺の恋人じゃねえだろ!」
「俺はシズちゃんに何度も好きだ好きだって言ってるのに、シズちゃんがそれを信じてくれないだけじゃない。俺はもう恋人のつもりだから」
「どういう理屈だよ……」

 はあ、と静雄が溜息を吐く。そう、実は臨也と静雄は正確には付き合ってはいない。だが臨也が初めて静雄に好きだと告白してから三ヶ月、会う度に好きだと繰り返し、殴られようが自動販売機を投げられようが決してへこたれない臨也の姿に、静雄もかなり絆されてきている、と臨也は思っている。だから付き合っているのも同然だ、と。後はもう時間の問題なのだ。
 現にこうして臨也が静雄の部屋の鍵をヘアピン一本でピッキングして勝手に侵入していたところで、静雄は怒らないではないか。多少機嫌は悪いようだが、標識を振り回される日々に比べたら格段の高待遇だ。

「まあまあ、それより見てよこれ、シズちゃんに誕生日プレゼントだよ。開けてみてよ」
「……何だそれ。どうせまたろくなもんじゃねえんだろ」

 静雄は完全に警戒していて、一向にその箱に触れようとはしない。
 仕方なく臨也が青のリボンを解き、箱からケーキを取り出して静雄に見せると、静雄は明らかに興味を惹かれた顔をした。
 ちゃぶ台の前に座り込み、じっとケーキを見ている。シズちゃんおたんじょうびおめでとう、とプレートに書かれた文字の通りに唇が微かに動いた。

「食べてみる?」

 少し躊躇った後こくりと頷くのがケーキの誘惑には勝てない子供そのもので、くすりと笑みが零れる。だがぎろりと睨まれて、臨也は慌てて表情を取り繕って用意していた包丁を手に持つ。

「プレートは先? 後?」
「後で食う」

 ああシズちゃんは好きなものは後に食べるタイプなんだろうな、と思いながらプレートをそっと摘んでケーキの端に置き直し、包丁を入れる。四等分に切り分けたケーキの断面図はふわふわのスポンジと滑らかな生クリームにフレッシュな苺、我ながら完璧なケーキだと悦に入った。

「はい、どうぞ」
「何かいい匂いすんな」

 皿を受け取った静雄がすん、と鼻を鳴らした。まず匂いで食べ物を判別しようという辺りが実に動物っぽくてまた可愛い、と臨也は内心でやに下がる。

「ああ、それはコアントローをスポンジに染み込ませてあるんだよ」
「酒じゃねえか」
「うん、本当はほんの少し香り付けに入れるらしいんだけど、シズちゃんがお酒に弱いのは知ってるからもしかしたらコアントロー程度でも酔っ払ってしどけない姿を見せてくれるんじゃないかなって思ってたっぷり入れてみたんだよね!」

 静雄の反応に浮かれ、調子に乗ってぺらぺらと裏の計画を話してしまった瞬間、ピキ、と静雄のこめかみに青筋が浮いた。

「これ、もしかして手前が作ったのか?」
「えっ、うん、もちろん」
「手前はそんな下心満載のケーキを俺に食わそうとしたのか…?」

 皿を持った手が微かに震えている。あ、やばい、と思った瞬間、静雄が吼えた。

「んなもん手前が食えこのノミ蟲があああ!」
「待ってシズちゃん、落ち着いむご、もごごご」

 ケーキを鷲掴みにした静雄がそれを臨也の口に無理矢理押し込む。オレンジの香りが口の中いっぱいに広がり、しっとりとしたスポンジが臨也から言葉を奪った。
 息ができない。限界を感じてバンバン、と静雄の手を叩くと、漸く口を塞いでいた手が離れ、少し呼吸が楽になる。
 だが口の周りは生クリームだらけ、喉の奥まで押し込められたスポンジが気管を圧迫しているような気がする。臨也は喉を詰まらせながらも何とかそれを飲み下し、ふう、と一息ついた。

「酷いシズちゃん、折角シズちゃんのために作ったのに……」
「ふん」

 静雄は手前が悪いとでも言いたげに鼻を鳴らし、だがその双眸はじっとケーキを見つめている。その香りに惹かれているようだ。

「まあ、コアントローがいくら強くてもこの量じゃたかが知れてるしな……」

 ぽつりとそう言って静雄はフォークを手に取った。確かにコアントローはアルコール度数は四十度くらいあるが、たっぷり入れたといってもスポンジの形を崩さないようにするには限界がある。
 フォークがケーキに刺さり、それを掬って口元に運ぶ。一口食べて味わうように、そして更に一口、二口とどんどんケーキが崩されて静雄の口に入っていく。

「どう? 美味しい?」
「まあまあだな」

 言いながらも静雄の手は止まらない。一ピースを平らげ、残った半分を食べるかどうか逡巡するかのように眺めてから、静雄はふと臨也を見た。そして唇の端を上げる。

「手前生クリームだらけだぞ」
「誰のせいかっていうと明らかにシズちゃんのせいだけどね!」
「そうだな」

 小さく笑って、静雄は指を伸ばして臨也の口元の生クリームを掬い取った。
 静雄が笑った。臨也にそんな優しい仕草で触れた。それだけで頭が爆発しそうな混乱に襲われている臨也の目の前で、その指をそのまま口に含み、指に絡みつく白を舐め取る。

「ん、生クリームが美味いな」
「そ、そう」

 その仕草にごくり、と喉を鳴らしてしまったのが聞こえてしまっただろうか。
 取り繕おうと思うのに、視線はその唇から離せない。そのまま見つめていると静雄の顔がゆっくりと近づいてきて、ぺろりと臨也の唇の端を舐め、臨也は驚愕に目を見開いた。
 すぐに離れた顔を窺い見ると、その目元は僅かに朱に染まっている。

「シ、シズちゃん……?」
「あー……酒に酔った」

 言いながら静雄は、ちらりと上目遣いで臨也を見る。まさか、幾らなんでもこの程度で酔うわけがない。幾らアルコール度数四十度でもスポンジに含ませるには限界があるし、静雄は一切れしか食べていない。

「あ、の、シズちゃん、」
「……今日だけだからな」

 残された二切れのケーキの上に、『シズちゃんおたんじょうびおめでとう』と書かれたプレートが残されている。
 それを横目で見ながら、臨也はそっと静雄の唇に自分のそれを重ねた。心臓の音がうるさすぎて他の音なんて聞こえない。
 初めてのキスは、生クリームと、苺と、スポンジと、コアントローの味がした。
 調子に乗った臨也はそのまま静雄を押し倒そうとして下腹部に拳を喰らったが、それでもどうしようもなく幸せで、もう一度『シズちゃんおたんじょうびおめでとう』、と殴られた箇所を押さえながら囁いた。

[20110128] ◆TEXT ◆TOP