day1 : night

「こっちがトイレ、向かいが洗面所とお風呂。で、ここがシズちゃんの部屋」
 開け放たれた扉の向こうには、殺風景な空間が広がっていた。
 広さは六畳ほどだろうか。天井まで大きく切り取られた窓にはカーテンがなく、夜の帳が降りた池袋の街が見渡せる。
 壁際には綺麗にメイキングされたベッドがぽつんと置いてあって、それがこの部屋で唯一家具と呼べるものだった。
 スリッパを履いたまま、一歩中へと足を踏み入れる。静雄が住んでいた部屋とそう広さは変わらないはずなのに妙に広く感じるのは、ただ慣れていないからだろうか。
「とりあえず、これからのことを決めようか」
 背後から掛けられた声に振り返ると、扉に凭れた臨也が腕組みをしてこちらを見ていた。
 赤いルビーを闇で覆い隠したような色の瞳が、真っ直ぐに静雄に向けられている。
「ある程度家事は分担したいとこだけど……シズちゃんって自炊とかする?」
「……たまに。でもそんなに上手くねえ」
「ああ、シズちゃん大雑把そうだもんね。普段ジャンクフードばっかり食べてるし」
 おそらく今までの静雄であれば、その言葉には即座に苛立ちを覚えていただろう。うるせえな嫌味かよ、とこの部屋唯一の家具であるベッドを持ち上げていたかも知れない。
 だが今は不思議と怒りは湧かなかった。その口調があまりにも淡々としていて悪意を感じさせず、ただ事実をありのままに述べただけだという印象をもたらしたからだろうか。
「手前は?」
「できなくはないけど、あまりしないかな。他人の作ったものは好きだけど、自分で食べるものを自分で作るのは時間がもったいないし」
「……じゃあ普段は何食ってんだ?」
「秘書がいた頃は作って貰ってたけど、一人だと外食か、栄養補助食品の類いで済ませるか、だね。ホテル暮らしだった頃はルームサービスが殆どだったかな」
 意外のようなそうでないような、複雑な気持ちでへえ、と頷いた。
 確かに臨也がマメに手料理を作るタイプだとは思っていなかったが、栄養補助食品のようなものを好むとは意外だった。高校の頃は近所の仕出し屋に弁当を届けさせたり、放課後に露西亜寿司に立ち寄っていたような男だ。美食家というか、舌が肥えていて不味いものは食べたくないのかと思っていた。
 だがよくよく思い出せば、校舎の屋上で、ゼリー状の栄養補助食品を食べていたような気がする。それっぽっちで足りるのかよと言った静雄に、シズちゃんほど無駄にエネルギー使わないからねと馬鹿にした口調で笑っていた。当然ながら喧嘩になって、静雄は食べていた弁当を放り出すはめになった記憶がある。
「じゃあ、食事は各自ということで。仕事の時間もバラバラだし、お互いそっちの方が気楽でしょ。掃除とか洗濯は?」
「まあ、伊達に独り暮らし長くねえからな、それなりに。クリーニングとか高えし」
「じゃあ決まり。シズちゃんが掃除で、俺が洗濯ね」
「別にいいけどよ、何で俺が掃除なんだ?」
 臨也の決断は実に早く効率的で、それに不満があったわけではない。ただ逆でも構わないのではないかという素朴な疑問だった。だが臨也はふて腐れたような顔をして、ほんの少し視線を逸らす。
「……掃除は嫌いなんだ」
 まるで悪戯が見つかった子供のような表情に、あやうく吹き出すところだった。何とか堪えたが、気付かれてしまったらしく、じろりと恨めしげに睨まれる。
 だがそれ以上臨也がその件に言及することはなく、それから、と何事もなかったかのように言葉を続ける。
「このマンションは3LDKで、隣が俺の部屋。廊下の突き当たりがリビング兼ダイニング。リビングの隣にもう一部屋あるけど、今は使ってない。あと、俺の部屋は掃除しなくていいから」
「じゃあ誰が手前の部屋掃除すんだ? 掃除嫌いなんだろ」
「そうなんだけど、あまり他人に見られたくないものもあるからさ。自分で何とかするよ。どうしようもなくなったら頼むこともあるかも知れないけど」
 そこまで言われてしまっては頷くほかなかった。
 胡散臭い情報屋などという仕事をしている男だ、確かに勝手に部屋に入るのは躊躇われる。プライバシー云々の問題もあるが、何よりも静雄が怪しげなものに好んで近付きたくはないというのが大きい。
「俺とシズちゃんの生活時間帯が合うとは思わないから、基本的には全て各自適当に。風呂も好きな時に入っていいし、キッチンも好きに使っていい。問題が発生したら考えよう。何か質問は?」
 首を横に振ろうとして、ふと思い至った。
 重要な問題を忘れていた。このマンションに入った時から、ずっと気になっていたことだ。
「家賃とか、どうすんだ? 手前に払えばいいのか」
「ああ、別に要らないけど」
「んなわけにいかねえだろ」
 どうでもいいと言いたげな臨也を軽く睨む。臨也はそう言うような気がしていたが、それでは静雄の気は収まらない。こんないい部屋にタダで住まわせて貰うわけにはいかないだろう。
 だが不安は募る。池袋の都心部にある高層マンション、最上階の3LDK。どう考えても静雄の給料で払えるような家賃でないことは容易に想像がつく。
「とは言ってもね。シズちゃん、アパートまだ引き払ってないでしょ。今すぐ退居の申出したところで三ヶ月程度の家賃は取られるわけだ。家賃二重になって、払えるの?」
 ぐ、と言葉に詰まって拳を握り締める。
 臨也の言う通りだ。かなり減ったとはいえ、まだ社長への借金が残っている静雄からすれば、今の家賃が二倍になるのはかなり辛い。かといって家賃も払わず居候するのも気がひける。
「とりあえず、今はまだお試しみたいなものだから。上手くいくかどうかもわからないし、破綻した時にシズちゃんのアパートなかったら困るでしょ。だから家賃はこの共同生活が軌道に乗って、シズちゃんのアパートを解約したら貰うことにするよ。それでいい?」
「……わかった」
 渋々と頷いた。後ろめたさはあるが、確かに今はそうするしかないだろう。
 何せ同居することが決まったのは今日なのだ。当然ながら何の準備もしていないし、今すぐアパートを解約することもできない。
 計画性の欠片もなく、ほぼ勢いだけで決まった臨也との同居生活。当然ながら臨也の言う通り、上手くいくとは限らない。破綻することもあるかも知れない。アパートを解約してしまえば、その時に路頭に迷うのは静雄だ。
「じゃあ、他に質問がなければご飯でも食べようか。と言っても当然ながら今家に何もないんだけど……何か買いに出る?」
「臨也」
 戸口から離れようとしたところを呼び止める。
 振り返った臨也を真っ直ぐに見つめ、問い掛けた。
「手前は本当に、これでいいんだな?」
 それが疑問だったのか確認だったのかは静雄自身にもよくわからない。
 だが臨也はふ、と口元を和らげ、穏やかな、優しい声で言った。
「何を今さら。一緒に住もうって言ったのは俺だよ?」
 それは今日という一日の中で、初めて見る臨也の笑顔だった。
 そしておそらく、静雄が初めて見る類の柔らかな微笑だったと思う。





 遅い夕食は、二人でコンビニエンスストアに買いに行くことになった。
 臨也が何か買って来ようかと言ったのだが、静雄が俺も行くと主張したのだ。
 単にマンション周辺の地理を確認したかっただけなのだが、二人でコンビニに行く、その行為に酷く違和感があることに気付いたのはマンションを出てからだった。
 臨也とこうして、並んで街を歩いたことなどない。同じ家を出て、同じ目的地に向かい、同じ家に戻る。そんなのは弟と一緒に小学校に通っていた頃以来だろうか。
 しかも相手はあの折原臨也である。その姿を目にした瞬間に怒りを覚え、逃げる背中を追い掛け、正面切って対峙しようものなら壮絶な殺し合いに発展する、そんな男と並んでコンビニに向かう日が来るとは思っていなかった。
 まるで夢を見ているような気持ちで、コンビニまでの数分の距離を歩く。
 夏が終わりに近付き、朝晩は冷え込むことも多くなった。静雄は寒さには強い方で、バーテン服一枚でも涼しいと思う程度だが、隣を歩く臨也はファー付きのコートを着込んでいる。だがそれが見慣れたものとは少しデザインが違うことに気付き、ますます現実感が失われていくような気がした。
 これは夢ではない、はずだ。現実であることを確認したいような気持ちで周囲に視線を遣ると、そこには見慣れた街並が広がっていて、内心で胸を撫で下ろした。
 仕事で池袋を歩き回っている静雄にとって、中心部に近いこの辺りはほぼ庭のようなものだ。だが日中通りすがるだけでは距離感などは把握しきれていない。マンションと周辺の店、目印などを頭の中の地図に書き込んでいく。
 きょろきょろと周囲を見回していたから、三分ほどの距離を妙に長く感じた。
 たまに仕事中に立ち寄る見慣れたコンビニで、二人揃って夕食を選ぶ。
 コンビニ弁当は好きじゃないとぶつぶつ言いながら臨也が選んだのは、三角形のミックスサンドイッチ一つだった。
「手前、そんなんで足りるのかよ」
 思わずそう言うと、臨也は少し驚いたような顔をして静雄を見上げる。
 そこでようやく、マンションを出てからここに至るまで一言も会話を交わしていなかったことに気が付いた。
 取り繕うようにサンドイッチをひっくり返して原材料表示を眺めた臨也は、そのまま軽く肩を竦める。
「元々夜はそんなに食べないんだ」
「だからそんなにガリガリなんじゃねえの」
「失礼な、こう見えても結構鍛えてるんだよ。着痩せするだけで」
「嘘吐け、どう見ても細えだろうが。肉食え、肉」
「コンビニのやっすい肉なんて食べたくないよ」
 ふん、と鼻を鳴らした臨也に苛立ちが募り、うるせえこのブルジョワが、と静雄が隣にあったカツサンドを籠に突っ込み、ちょっと勝手なことしないでよ、と顔を顰めた臨也がそれを棚に戻す。
 しばらくそんな攻防を繰り広げた結果、サラダチキンを追加することで話が纏まった。じゃあこれは、こっちは、と静雄が食い下がったところ、チキンならまあ、と臨也が妥協したのだ。
 適当に選んだロースかつ弁当──臨也は横でよくそんなの食べる気になるねと顔を顰めていた──とプリン、臨也の分のミックスサンドとサラダチキンの会計を済ましたのは静雄である。臨也は当然のように自分の分を払おうとしたのだが、しばらく家賃も払わないんだからこれくらい払わせろと言い張れば素直に財布を仕舞ったのは少し意外だった。
 半透明のコンビニ袋を片手に提げ、暗い夜道を並んで歩く。
 コンビニでの遣り取りをきっかけに、少しずつ会話ができるようになった。いつもコンビニでは何を買うのかと訊かれ、プリンと即答した静雄に、よく飽きないねと呆れたような声が返ってくる。
 沈黙が流れることもあったが、ぽつぽつと他愛のない話を臨也が振り、それに言葉少なに答えるということをしているうちにマンションに着いた。行きよりも帰りの方が近く感じたのは、きっと話をしていたせいだ。
 ダイニングテーブルを挟んで向かい合い、コンビニで温めてもらった弁当とサンドイッチを食べる間も、時折思い出したかのようにぽつぽつと言葉を交わした。特に盛り上がることもないが、会話が途切れても弁当のおかずについて一言コメントすれば間が持つのはありがたい。
 サラダチキンとサンドイッチを腹に収めた臨也は、静雄がプリンを食べている間に風呂に入ると言い残してダイニングを出て行った。
 途端にリビング兼ダイニングがしん、と静まり返る。
 合わせて二十畳ほどはあるだろうか。ダイニングテーブルの向こうにはカウンターキッチンが見え、冷蔵庫や電子レンジなど必要最小限の家電は揃っているようだ。リビング側には三人以上が座れそうなゆったりとしたソファと、大きいローテーブル、壁面に壁を覆い尽くすような大型のテレビが据え付けられているが、それらが家具の全てだった。
 生活感のまるでない、殺風景な部屋だ。それでも天井までの大きな窓には光沢のあるカーテンが掛けられていて、ベッドしかない静雄の部屋よりはマシだろうか。
 ぼんやりと部屋を見回していると、微かにシャワーの音が聞こえてきた。ささめきのような水音を聞きながら、食べ終えたゴミをコンビニ袋に纏めていく。
 ゴミ箱を探してうろうろ部屋を彷徨っているうち、ガチャリと音を立ててリビングの扉が開いた。
 びく、と肩が揺れたのは不可抗力だ。顔を上げると、タオルで髪を拭きながら臨也が部屋に入って来る。グレーのパーカーにゆったりとしたハーフパンツという、初めて見る姿に一瞬目を奪われた。
 立ち尽くした静雄の手元に目を落とした臨也が、納得したような顔をする。
「ああ、ゴミ? そういえばゴミ箱まだ買ってなかったな……後で捨てるから、その辺に置いといて」
「その辺って……」
「このマンション、部屋を出たところにダストルームがあるからさ。二十四時間三百六十五日、好きな時にゴミを捨てられるんだ。髪乾かしたら捨ててくるから」
「だったら俺が捨ててくる。掃除は俺の仕事だろ」
 そう言うと臨也は虚を衝かれたような顔をして、一瞬動きを止めた。だがすぐにじゃあよろしく、と呟いてリビングのソファに腰を下ろす。
 テレビのリモコンを手に取る姿を視界の端に捉え、ゴミの入った袋を持ってリビングを出た。
 革靴を適当に引っ掛けて廊下に出ると、目の前の鉄製の扉に小さくダストルームと書かれているのが見える。そっと扉を開けてみれば、コンクリート打ちっぱなしの小さな部屋のような空間だった。廊下から差し込む灯りで床にゴミ袋が置かれているのが見え、その隣にコンビニ袋を置いて扉を閉める。
 静雄のアパートではゴミを出す日が厳密に決められていて、うっかり忘れようものなら次の収集日まで持ち越すはめになっていたから、さすが高級マンションは違うなと感心しながら部屋に戻った。
 玄関扉を閉めると同時に鍵を閉める。自分の部屋ではよく鍵を閉めるのを忘れていたが、コンビニから戻って来た時に必ず鍵は閉めることと釘を刺されたのだ。
 引っ掛けただけだった革靴を脱ぎ、リビングに戻るとタオルを頭に被ったままの臨也と目が合う。
「お風呂入ったら?」
「あー……明日の朝、入ってもいいか? 俺癖っ毛で、朝起きたらいつも髪凄えことになってるからよ、大抵朝シャワー浴びてて……」
 幾分早口になってしまったのは、まるで言い訳じみているという自覚があるからだ。癖っ毛なのも朝起きると大変なことになっているのも本当だが、実際のところシャワーを浴びるのは朝だったり夜だったりとまちまちだった。
 言ってみればその時の気分次第、そして今はシャワーを浴びる気分ではなかったというだけだ。
「ふうん……それは明日の朝が楽しみだな」
 にやり、と唇の端を上げる、そんな見慣れたはずの笑い方を、久しぶりに見たような気がする。
 苛立つよりも懐かしいような気持ちになって見入った静雄から目を逸らし、立ち上がった臨也はダイニングテーブルの上に置いてあった何かを手に取った。
 手の中のそれをほんの一瞬見つめ、その手をこちらに差し出してくる。
「この部屋の鍵。下のオートロックと共通だから。失くさないでね」
 躊躇いがちに手を伸ばすと、手のひらの上に銀色の真新しい鍵が落とされた。
 静雄のアパートの鍵とは違い、結構な重量がある。よく見れば厚みのある金属に丸い窪みがたくさん付いていた。こういった形状の鍵はピッキングが難しいとどこかで聞いた覚えがある。
 手のひらに目を落としたままサンキュ、と呟くと、小さく笑った気配があった。
 顔を上げた先で、目を細めるようにして臨也が笑っている。
「これからよろしくね、シズちゃん」
 それに何と返したかは覚えていない。気が付けば宛がわれた自室の、ベッドの上に大の字になっていた。
 いつの間にかバーテン服ではなく、寝間着代わりにしているジャージを着ているし、床に置かれた最低限の荷物だけが入ったボストンバッグの中身は空になっていたから、リビングを出て部屋で着替えたことだけはわかる。作り付けのクローゼットの扉が少し開いているから、きっとバーテン服や着替えはそこに仕舞ったのだろう。
 なのにやはり夢の中にいるような感覚は続いていて、自分が本当にそんな行動を取ったのかは自信がない。
 だから今、静雄がはっきりと感じ取れるのは、握り込んだままの硬質な金属の重みだけだった。
 カーテンのない窓から差し込む月明かりだけの薄暗い部屋で、手の中の鍵を光に透かすように眺める。
 真新しい、見慣れない形をした鍵。指先でその形をなぞると、小さな凹凸を感じた。ギザギザした静雄のアパートの鍵とはまったく違う手触り。──臨也の部屋の、鍵。
 この時ようやく、じわじわと実感が湧き上がってきた。
 これから、臨也と二人での共同生活が始まるのだ。