day2 : afternoon

「おーい、静雄くーん?」
「あっ、はい」
 ふいに声を掛けられて、銜えていたストローから口を離した。
 視線の先では正面に座るトムが、怪訝そうな顔で静雄を覗き込んでいる。
「どうしたんだ? さっきからずっとシェーキしか飲んでねえべ」
 手元に目を落とせば、プラスチック製のトレイの上には手つかずのチーズバーガーとポテトが載っている。対するトムのトレイにはクシャクシャに丸められたバーガーの包み紙と空になったポテトの袋が置かれていて、灰皿には吸い殻が一本捨てられていた。
 昼食を取ろうといつものロッテリアに入ったところまでは覚えている。喫煙席に陣取り、最初にシェーキに口を付けたことも。
 だがそれから昼食には手も付けずぼうっとしていたのだろうか。左手に持ったバニラシェイクのストローの吸い口は噛みすぎのせいかボロボロだ。
「すみません……ぼーっとしてて、」
 ポケットに突っ込んでいた右手を出そうとして思い出した。シェイクに口を付けながら何気なくポケットに手を突っ込んだ瞬間、そこにあった金属製の鍵に指先が触れ、意識を持って行かれてしまったのだ。
 静雄のポケットに仕舞われた、静雄の部屋のものではない金属製の鍵。
 それから無理矢理指先を引き剥がし、冷め切ったチーズバーガーに齧り付く。
「昨日から、おかしいよなお前。やっぱアレか、あいつに会ったせいか」
 ぐ、と喉に詰まりそうになったのを何とか飲み込み、さらにシェーキで流し込んだ。
 その後の展開が怒濤のようだったから忘れかけていたが、そういえば昨日臨也に会った時、近くにはトムがいたのだった。
 まさかこんなことになっているとは思いも寄らないだろうが、臨也と会ったというだけで異変を察するには十分なのだろう。
 何せ、臨也との再会は実に数年ぶりだったのだから。
 そんなに急がなくていいからよ、と苦笑するのに頷いて、冷えたポテトをもそもそと口にする。
「まあ、お前とあいつが会って喧嘩にならなかったのが不思議だったもんな。二人とも大人になったってことかね」
「……そうっすかね……」
「あいつはどうか知らねえけど、お前に限って言えば切れるのも随分減ったしよ。やっぱり大人になったんじゃねえの?」
 もごもごとチーズバーガーを咀嚼しながら曖昧に頷いた。
 大人になった、という言い方には語弊がある、ような気がする。
 もしそれが成長したという意味なら、きっと静雄は成長などあまりしていない。
 結構な頻度で怒りを抑えられるようになったものの、たぶんそれだけだ。それは極端に短すぎた怒りの導火線が若干長くなっただけの話で、冷静な判断ができるようになったというわけではない。
 何も考えずに衝動的な行動を取ってしまうのは相変わらずで、だからこそこうなっているのではないかと思う。
「……トムさんは、他人と一緒に住んだことってありますか」
 ぽつり呟くと、新しい煙草に火を付けたトムは大きく目を見開いた。
「え、何、静雄お前、誰かと一緒に住むのか? もしかして彼女でもできたか?」
「あ、いや、そういうわけじゃないんすけど」
 慌てて手を振って口を噤む。
 言うべきなのだろうか。急遽他人と一緒に住むことになり、その相手が臨也であると。
 余計な心配を掛けてしまうかも知れない。臨也と静雄の仲を知る者であれば、上手くいくわけがないと思って当然だ。
 まだ同居生活は始まったばかりで、これからどうなるかもわからない。もしかしたらすぐにでも破綻するかも知れない以上、下手なことは言わない方がいいのだろうか。
 ぐるぐると考え込んでしまった静雄に、そうなあ、と思案深げな声が掛かる。
「昔付き合ってた彼女と同棲したことあんだけどな、まあ、難しいわなあ。お互い相手をどこまで許せるかっつーか、どこまで妥協できるかっつーか。譲れるとこと譲れねえとこあんべ? それが許容範囲かどうかっつーのが結構重要かもなあ」
「……許容範囲……」
「全然違う生活してた二人が一緒に暮らすっつったらよ、色々食い違いも出てくるわけよ。それこそ金銭感覚の違いから、ゴミの捨て方一つに至るまでな。付き合い長くても初めて知ることも多くて、ぶつかることも増える。たまに会ったり泊まったりするくれえなら気にならなかったことも、毎日続くと気になりだしたりしてよ。何もかも我慢する必要はねえけど、ある程度ルールっつーか、そういうの決めて、お互いに妥協点見つけねえと難しいよなあ」
 そういうものなのか。
 なるほど、と思うと同時に、不安が湧き上がってくる。
 相手をどこまで許せるか。どこまで妥協できるのか。
 全くもってできる気がしない。相手は臨也だ。性格も価値観も何もかも違うのはわかっているし、互いにそれを許せなかったからこそ長きに渡って対立していたのではないのか。
「……結局、トムさんはその人とどうなったんすか」
「俺が今独り身なの知ってんだろ? 二ヶ月くらいでダメになったな。まあ俺も若かったからよ、ちょっと意固地になってたとこもあるっつーか……何で俺が合わせなきゃならねえんだって思ってた部分もあったわなあ」
 ふう、と煙草の煙を天井に向けて吐き出したトムは、苦笑しながらテーブルに頬杖をつく。静雄の顔を覗き込み、まるで静雄の不安を見透かしているみたいに、宥めるような口調で言葉を続けた。
「まあ、俺の場合は失敗例だからよ。実際んとこ、やってみねえとわかんねえべ。どんだけ事前にシミュレーションしたとこで上手くいくとは限らねえし、逆に心配してたのが馬鹿みてえにあっさり馴染むこともあるだろうしな。結婚とかよ、自分たちだけの問題じゃなくなる場合はそうはいかねえだろうが、やってみて無理だって思ったらやめるって手もあるっちゃある」
 静雄は曖昧に頷いた。
 確かに考えるだけ無駄なのだと思う部分はある。やっていける自信がない、そうは思うものの、だからといってやっぱりやめようという気にもならないのだ。
「……でも、やってみて無理だってなったら……やっぱり、その相手とは、もうダメになるんすよね……?」
「まあ、難しいだろうなあ。でもそういう相手とは遅かれ早かれダメになるんじゃねえか? 一緒にいるのに無理しなきゃなんねえってのは続かねえだろ」
「……そっすね」
 同意を返したものの、ダメになる、という言葉が意味する状態をいまいち理解しきれていない部分はあった。
 例えば恋人同士であれば別れる、ということになるのだろう。付き合っていた二人が離れて、もう二度と会うことも、連絡を取ることもなくなる。ふとしたきっかけで相手の噂を耳にして、何らかの感情を掻き立てられたとしても、日々は何事もなく過ぎ去っていく。
 恋人などできた試しのない静雄が想像できるのはそんなイメージだ。だけどそれを自分の身に置き換えてみると、たった数日前の自分と何が違うのだという気にもなる。
 ほんの二日前まで、臨也の行方はおろか、生死すら曖昧だった。時折風の噂でその名前を耳にすることはあっても存在は確認できず、ごく平穏な日常が続いていた。
 信頼できる上司や仲間たちに囲まれて、静雄の三十年近い人生の中で初めて、ずっと願っていた静かで平穏な暮らしというものを手に入れたと思っていた。
 だからきっと何も変わらない。たとえダメになったとしても、またあの生活に戻るだけだ。恋人を失うよりも、よほど気が楽なのではないだろうか。だって愛し合った二人の愛情が薄れて別れるのではなく、憎み合っていた二人が元の関係に戻るだけなのだから。
 いつの間にか、またポケットの中の鍵に手を伸ばしていた。静雄の部屋のものではない、金属製の鍵。
 冷たくて硬質な感触を握り締め、迷いを振り切るようにシェークの最後の一口を吸い上げた。





 差し込んだ鍵を捻ると、ガチャリ、と重々しい音と共に振動が手のひらに伝わった。
 静雄の部屋の鍵はもっと軽かったように思う。音も感触も、何もかもが慣れたものとは違っていて、知らず詰めていた息をゆっくりと吐き出す。
 この鍵を使うのはもう二回目だ。今朝この部屋を出る時に鍵を閉めたのだから、何も今が初めてというわけではない。
 だが今朝とは全く違う緊張感がある。出て行くか中に入るかでこんなに意識が違うだなんて、思ってもみなかった。マンションのエントランスのオートロックを解除した時よりも、今の方がさらに緊張は高まっていた。
 意識して肩の力を抜き、もう一つの鍵を開ける。
 この部屋の玄関扉はダブルロックになっていて、ドアハンドルの上下に鍵穴が一つずつあるタイプだ。昔は何故同じ鍵を二つもつけるのかと思っていたが、これもピッキング防止に効果的なのだと、回収先でトムが居留守を使う債務者の玄関扉を見ながら話していたのを覚えている。
 ドアハンドルに手を掛け、小さく深呼吸をした。肩が上下するのにつれて、左手に提げたコンビニのビニール袋がかさりと音を立てる。最近よく見かけるハンドルタイプの取っ手は、軽く引いただけであっさりと扉が開いた。
 音もなく開いた扉の内側で玄関のライトが点灯し、端に揃えられた静雄のものではない黒の革靴を明るく照らした。人感センサーがついているらしく、昨日から出入りするたびに点灯するのにいちいち驚かされているのだが、やはり今もびくりと肩が揺れて小さく舌を打つ。
 ──そんなんじゃこれからもたないよ?
 今朝の臨也の言葉がまた脳裏に蘇った。そのうち慣れる、と同じ言葉を胸のうちで返し、玄関に足を踏み入れる。
 何度も念を押された『鍵は開けたらすぐ締める』という声を思い出し、内側から上下のロックを掛けた。アパートでは部屋に入れば鍵を掛けるというのが何となく習慣になっていたものの、鍵の形状が違うためにうっかり忘れてしまいそうだ。これこそ早く慣れてしまわなければならない。
 靴を脱いで廊下を少し歩けば、すぐに静雄に宛がわれた部屋がある。このまま部屋に入るべきか、一瞬迷って結局リビングへと足を向けた。
 帰りにコンビニで買った弁当はいつもの習慣で温めてもらったので、そのまま部屋に入っても良かったのだと思う。
 だがやはり人と一緒に住んでいるのに、帰宅の挨拶もせず自室に入るのには抵抗があった。帰ってきたらちゃんとただいまを言いなさい、と厳しく躾けられてきた静雄は、人並に少しはあった反抗期の最中でも、挨拶を欠かしたことはなかったのだ。
 今朝も同じことで悩んだ気がするが、やはり染みついた習慣を無視することはできない。
 何と言うべきなのか悩みながらリビングの扉をそっと押し開くと、しん、と静まり返った空間が広がっていた。パタン、と背後で扉の閉まった音が広いリビングに響き渡る。
 出掛けているのだろうか。いや、玄関には靴があったから、自室にいるのだろうか。
 一瞬過ぎったそんな疑問は、微かな物音で掻き消された。パタンと扉が閉まるような音。それからパタパタとスリッパが鳴るような音が近付いて来る。
 振り返ると同時にカチャリと音がして、リビングの扉が開いた。
「あ、おかえり」
「……ただいま」
 反射的にそう答えた静雄に、臨也は僅かに口元を緩める。だがそれ以上何かを言うこともなく、キッチンへと足を向けた。
 もうこんな時間か、と呟いた臨也は、どこか覇気のない顔をしている。お湯を沸かすつもりなのだろう、電気ケトルを手にシンクの前に立ったその双眸には力がなく、今にもとろんと閉じてしまいそうだ。
「……寝てたのか」
「んー……少し、うとうとしてたかな」
 ぼそぼそと紡がれる声を聞いた瞬間、何も考えずに言葉が出ていた。
「昨日、寝てねえのか」
 何故そんなことを訊いたのかは自分でもよくわからない。ただそんな直感があった。
 カウンター越しに目が合って、そのまま数秒見つめ合う。臨也が持っていた電気ケトルから水が溢れ出し、その音で我に返ったように視線が外れた。
「……まあ、そんなとこ」
 電気ケトルをセットした臨也は目を逸らしたまま苦く笑う。気付かれたくはなかった、そんな表情だった。
 思わず拳を握り締めると、左手に持ったままのコンビニ袋がかさりと音を立てる。その微かな音に気付いたらしい臨也が、ご飯食べたら、と静雄を促した。
「ああそうだ、今日灰皿買ってきたよ、蓋付きのやつ。換気扇の下に置いてあるから、」
「臨也」
 鋭く名前を呼んだのは、話題を変えようとする意図を感じ取ったからだ。
 口を噤んだ臨也が顔を上げた。視線が絡む。その双眸は力を取り戻していたけれど、目の下には薄らと隈が浮いていた。
 昨日寝ていないと言った臨也。今もうとうとしていたとはいえ、充分な睡眠は取れていないのだろう。
 じわり、と焦りが滲む。不安とも恐怖ともつかない感情が湧き上がり、静雄を駆り立てる。
 言うべきことがあるはずだ。なのにそれが形を成さず、さらに焦りが募っていく。
「手前、無理、してんじゃねえのか」
 結局言えたのはそんな言葉で、これではきっと伝わらないと思った。これではまるで責めているかのようだ。
 案の定、柳眉が跳ね上がり、薄い唇が弧を描く。冷笑を浮かべた臨也の、蛍光灯の光を反射する瞳がぎらりと光った。
「それは、この共同生活について言ってるのかな?」
 冷たい声だった。まるで感情を力尽くで抑え込んだような、絶対零度の声だ。だがその声音とは裏腹に、こちらを強く睨む瞳は熱く燃え滾っている。
「無理? してるよ、もの凄く。当然だよね、他人と一緒に暮らしたことなんかないし、しかも相手はシズちゃんだ。昨日の夜は全然眠れなかった。君の一挙手一投足に耳を澄ませて神経を尖らせて、気が休まる暇なんてありゃしない。君だってそうだろ?」
 問い掛けの形を取ってはいたが、それは確信に満ちていた。そんなんじゃこれからもたない、そう言った台詞はきっと静雄を笑うためのものではなかったのだろう。
 目を伏せた臨也が深く息を吐き出す。ほんの一瞬の沈黙。そして再び絡んだ視線は、不思議と穏やかに凪いでいた。
「だけどそんなの、わかってたことだ。君と一緒に暮らすと決めた時からね。それくらいの覚悟がないと君とは暮らせない」
 覚悟、という単語に力が籠もる。突き放すような口調なのに、その双眸は静かな色をしていた。まるで全てを受け入れたような、全てを諦めたような、暗い夜の海を思わせる色だ。
 覚悟。その言葉が脳内に反響する。重々しい響きを持つそれが、圧倒的な質量をもって、静雄の胸に圧し掛かった。
 肺が押し潰されて、上手く呼吸ができない。思わず眉根を寄せた静雄に、冷え切った声が届く。
「無理をしてるからどうだって言うのさ。じゃあやめる? お互いに無理はよくないよねって言って、同居なんかやめて俺と離れて、それぞれ別の人生を歩む?」
 その唇が酷薄に歪むのを見て、ああそうか、とやっと理解した。
「一緒に暮らそうと言ったのは俺だけど、それを望んだのは君だよ、シズちゃん」
 たぶん臨也はずっと、怒っていたのだ。
 ──静雄に、それだけの覚悟がなかったことを。