day2 : morning

 目が覚めると、見慣れない白い天井が見えた。
 何だアレ、とぼんやり考え、次の瞬間がばりと勢い良く身体を起こす。
 白い天井に白い壁、カーテンのない大きな窓から見えるのはビルが乱立する街並。
 殺風景な部屋の、床にぽつんと置かれたボストンバッグには見覚えがある。随分昔にもう使わないからと弟である幽から貰った──つまり、静雄のものだ。
 そうか、とようやく思い至る。ここは池袋の中心部に聳え立つ高層マンションの最上階、臨也の住む部屋だ。
 昨日から、ここで臨也と静雄は一緒に暮らすことになった。このマンションを訪れたのは昨日の夜が初めてで、朝の光に照らされた部屋があまりにも夜の印象と違ったものだから、一瞬どこにいるのかわからなくなったのだ。
 現状を認識した途端、煙草が吸いたい、と強く思った。
 起き抜けに煙草を吸うのが習慣となってしまっている静雄にとって、朝の一服は重要な目覚ましだ。それがないとどうにも頭が働かないし、何となく落ち着かない。
 ニコチンの禁断症状という一面もあるだろうが、どちらかといえば──特に今に限っては、いつも通りの行動、習慣をあえてなぞりたかった。
 そういえば昨日、この部屋に来てから一度も煙草を吸っていない。どこか夢の中にいるような感じで過ごしていたせいだろうか。
 とはいえ、部屋の主である臨也は煙草を吸わないはずである。少なくとも静雄の記憶では吸っているところを見たことがないし、この家からは煙草の匂いが一切しない。朝の光を浴びて白く反射する壁紙には汚れ一つなく、経年劣化とヤニで黄ばんだ静雄の部屋とは訳が違う。
 ずっと煙草が吸えないとなると辛いなと考えながら、枕元に置いていた携帯電話で時間を確認する。いつも起きる時間より少し早い。アラームに起こされずに起きるのは随分と久しぶりで、欠伸をしながらベッドから降り立った。
 がしがしと金髪を掻き乱し、ほんの僅か逡巡する。一つ溜息を吐いて携帯電話をジャージのポケットに入れ、クローゼットに掛けられていたバーテン服のポケットから煙草と携帯灰皿を取り出した。
 部屋を出て臨也を探す。臨也の部屋を覗くのは躊躇われたので、とりあえずリビングに顔を出すと、ちょうど臨也がキッチンからマグカップを持って出てきたところだった。
「おはよう、シズちゃん。よく眠れた?」
 微笑みと共に寄越された朝の挨拶に、静雄は戸惑い、だが極々小さな声ではよ、と返した。
 朝の挨拶を交わす相手がいる、しかもその相手は臨也であるということが未だに信じられない。
「本当に凄い寝癖だね。シャワー浴びたら? シャンプーとか好きに使っていいし、タオル置いといたから」
 くすり、と笑みを零すその表情は、今までに見たことがなかった類いの──おそらく一生見るとは思わなかった類の、柔らかなものだった。なのに、それを昨日からはたびたび目にしている。
 くすぐったいような落ち着かないような気持ちになり、ぼさぼさになっているだろう髪を撫で付けながらぼそぼそと呟く。
「あー……その前に、煙草吸いてえんだけどよ……」
「ああ、好きなとこで吸っていいよ。換気さえしてくれれば」
「……でも、手前は吸わねえだろ」
 あっさりと許可が下りて逆に戸惑う。静雄は愛煙家だが、このご時世、喫煙者は肩身が狭いことをよく理解している。部屋で吸えば真っ白な壁紙はヤニで黄ばんでしまうだろうし、匂いだって残る。
「別に気にしないよ。俺は吸わないけど、別に嫌煙家ってわけでもないしね。でもシズちゃんが気になるなら、キッチンの換気扇の下で吸えば?」
 事も無げにキッチンを指差す臨也は穏やかな表情で──逆に言えば感情の読み取りにくい顔をしている。
 本当にいいんだろうかと躊躇する気持ちもあったが、これからこの部屋で暮らすのであれば、どうしたって煙草の問題は出てくるだろう。禁煙しろと言われても困るのだし、臨也が気にしないというのなら甘えるしかない。
 サンキュ、とぼそぼそ小声で呟いて、キッチンに入った。
 立派なシステムキッチンには三口コンロが付いていて、その上部に換気扇がある。換気扇のスイッチを入れながら煙草に火を着け、深く吸い込んだ。
 ゆっくり煙を吐き出すと、ふ、と肩の力が抜けた気がする。
 やはり慣れない生活で無意識に緊張していたのだろうか。首をこきりと鳴らし、紫煙が換気扇に吸い込まれていくのをぼんやりと眺めた。
 静雄の煙草は葉が詰まっているせいか、燃え尽きるまでの時間が異様に長い。上司であるトムと一緒に煙草を吸い始めると、静雄が一本吸う間にトムは二本吸っていることが殆どだ。時間かかってすみませんと謝ると、俺はチェーンスモーカーだからちょうどいいべ、と笑われたのは随分と昔の話だ。
 だがそうやって時間をかけてのんびりと煙草を吸うことで、心の余裕が持てるようになった部分もある。
 今もしばらく煙の行く末を眺めているうちに何となく心が落ち着いたような気がして、カウンター越しにリビングの臨也へと視線を流す。
 ソファに腰掛けた臨也は、マグカップを持ったまま、もう片方の手でスマートフォンを操作していた。何を飲んでいるのかは知らないが、まだ熱いのか、スマートフォンを弄りながらマグカップに口を付けてはすぐに離す、というのを繰り返している。
 飲めねえならテーブルに置いておけばいいのに、と思いながらその光景を見ていると、ふいに臨也がこちらを向いた。
 ぎくり、と肩が強張ると同時に視線が絡む。こうなってしまっては目を逸らすわけにはいかない。
 息を詰めた静雄に向かい、臨也は淡々とした声で問い掛ける。
「そういえばさ、シズちゃんっていつも朝ご飯どうしてるの?」
「……あさごはん、」
 一瞬何を言われているのかわからなかった。
 正確には、当然知っているはずのその単語が臨也の口から出たことに驚いて、言葉とその意味が結び付くのに時間が掛かったというべきだろうか。
 だが臨也は平然とした顔のまま、右手に持ったマグカップを軽く掲げる。
「俺は朝はコーヒーだけなんだけど、朝ご飯食べるのかなって思って」
「あー……いや、牛乳あったら飲むくらいで、あんま食わねえ」
「牛乳? ……あったかな……」
 僅かに首を傾げた臨也が立ち上がり、キッチンに入って来た。コンロの斜め後ろにある静雄の身長ほどもある大きな冷蔵庫を開けて中を覗き込んでいるが、ちらりと見えた範囲では栄養ドリンクの類が幾つか入っているだけで、がらんとしている。
「やっぱりないな。まあないだろうとは思ったけど。今日買って来ておくよ」
「あ、いや、それくらい俺が……」
「そう? じゃあよろしくね」
 パタンと冷蔵庫の扉を閉めた臨也が、すぐ傍に立つ静雄を見上げた。視線が交わり、その瞳が僅かに眇められる。
「……灰、落ちるよ」
 抑揚のない声がそう指摘して、慌てて手に持ったままだった煙草を携帯灰皿に突っ込んだ。灰皿の口を閉じていると、背後で灰皿も買わなきゃね、と呟くのが聞こえる。
「改めて考えてみたら、色々と足りないものがあるよね。俺自身ここに来て間もないし、シズちゃんとは生活スタイルが違うから当然なんだけど……思い付いたらでいいから、リストアップしてメールくれると助かるな。今日買える物は買っておくし」
 ああ、とただ頷いた静雄は、ポケットから携帯電話を取り出して時間を確認した。そろそろ準備をしなければならない。今からシャワーを浴びるなら少し急がなくては。
「風呂、借りる」
 携帯電話をジャージのポケットに突っ込み、煙草と携帯灰皿を持ってキッチンを出ようとした静雄を、背後からのシズちゃん、という声が呼び止めた。
 振り返れば臨也は目を細めるようにして、微かな笑みを浮かべてみせる。
「緊張し過ぎだろ。そんなんじゃこれからもたないよ?」
 ち、と思わず小さく舌を打った。気付かれているだろうと思ってはいたが、そこをあえて指摘してみせるのがこの男だ。逆に何で手前はそんなに平然としてやがるんだと言いたい。
 だがそれも何だか癪に障るような気がして、顔を顰めてうるせえなと言い放つ。
「そのうち慣れる」
 その言葉に臨也は僅かに目を瞠り、それから満足気な笑みを浮かべた。勝ち誇るでもなく、皮肉気でもなく、純粋に嬉しそうな笑顔だ。
「期待してるよ」
 その声が酷く優しげに響いた理由を、たぶん静雄は知っていたと思う。
 まだ、それを上手く言葉に表すことはできなかったけれど。





 これだけ立派なマンションだ、風呂も相当なものだろうとは思っていたが、予想通りの広さに始めは落ち着かなさすら覚えた。
 洗い場は二人くらいなら十分に座れる広さがあり、浴槽は長身の静雄でも足を伸ばして入れそうな大きさである。
 静雄が住んでいる築三十年のアパートは風呂とトイレが別になっているのが不思議なくらいの古さだったが、その分風呂は酷く狭かった。浴槽に浸かろうと思うと膝を抱えて丸くなるしかないので、殆ど浸かったことはない。
 だがここならゆったりと足を伸ばして湯に浸かれそうだ。今は時間がないからシャワーをざっと浴びることしかできないが、夜はゆっくりと風呂に入ってもいいなと思う。
 浴室にはポンプ式のシャンプーとコンディショナー、ボディーソープとチューブ式の洗顔フォームが置いてあるだけで、洗面器や椅子の類いはない。だが天井が高く、シャワーの位置も調整できるので静雄の身長でも立ったままシャワーが浴びられるから不都合はなかった。
 そういえば昨日ここに来てからは一度も、頭がぶつかりそうになって慌てて身を縮めるというもはや習性ともなった動作をしていない。アパートの中では、部屋の移動をするたびに頭を屈めるはめになっていたというのに。
 シャンプーのボトルを手に取ると、何だか難しげな横文字が並んでいる。コンディショナーというのがリンスと同じようなものだということくらいは知っているが、リンスインシャンプーしか使ったことのない静雄にはよくわからない。
 そもそもリンスインシャンプーだって、それまでずっと石鹸で全身を洗っていたが、トムが石鹸は乾燥するからせめて用途別に分けろ、と言ったから使い出したのだ。冬になると肌が乾燥し、肌が痒くなる時があるとぼやいた静雄に対する有用なアドバイスだった。
 それからは石鹸をやめて、リンスインシャンプーとボディーソープ、洗顔フォームを使い分けるようになった。石鹸で全てを済ませるのとは桁違いの出費だったが、高級品を使うわけでもなく、せいぜいが月に千円二千円の話である。その頃には借金額も少し減って生活にも多少の余裕は出てきていたし、肌の痒みに結構ストレスを感じていたから、試してみる価値はあると思ったのだ。
 効果は抜群で、肌の乾燥が殆ど気にならなくなり、真冬に髭を剃った後のかさつきにはこれもトムのアドバイス通りベビーローションを塗れば問題はない。トムさんなんてこの歳になったら化粧水と乳液は欠かせないのにやっぱりこれも体質のせいかね、と苦笑するトムに、そういうものなのかと驚いた記憶がある。
 静雄が気を遣っているのなんてその程度だ。髪にはリンスインシャンプー、顔には洗顔フォーム、身体にはボディーソープ、帰宅後に手を洗う時には使い掛けでお役御免になった石鹸を使っているが、要するに一カ所につき一つの洗浄料を使う、というレベルに過ぎない。
 そんな静雄からすれば、シャンプーとコンディショナーの二つを髪に使う必要性がまるでわからず、とりあえずシャンプーで髪を、ボディーソープで身体を、洗顔フォームで顔を洗って浴室を出る。
 浴室の扉を開ければそこは洗面所になっていて、ドラム式の洗濯機の上に置いてあったバスタオルで全身を拭いた。
 白くてふわふわのタオルは、いかにも上質なものだ。静雄が愛用していたペラペラでゴワゴワのタオルとは肌触りが全く違う。
 子供の頃を何となく思い出した。あれは静雄が小学校高学年の頃だろうか。母親が買ってきた柔らかくてふわふわのバスタオルは、幽が薄い青で静雄が薄い緑を使うことになった。
 どちらの色が好きかと尋ねられた時に、静雄は別にどちらでもいいと思っていたら、感情の起伏が少ない幽が黙って薄い青を指差したのだ。異論があるわけもなく、それから兄弟で同じものを持つ時は、何となく幽が青で静雄が緑という決まりのようなものができた。
 あのバスタオルは今でも実家に置いてある。静雄が力加減を間違えて破いたこともあるが、同じ色を何枚か買っていたのか、同じものを買い足したのかも知れない。年に一回か二回、静雄が実家に泊まる時には必ずそれを使う。もうかなりの年数が経っているのでだいぶ草臥れているが、それでも静雄が独り暮らしを始めた時に買った安物のタオルよりは柔らかい。
 今思えば、おそらくあのバスタオルはこれと同じように上質の物だったのだろう。どうやったらあんな風に柔らかいタオルになるのだろうかと悩んだこともあったが、そもそもの質の問題なのかも知れない。
 タオルを腰に巻いたまま洗面所にあったドライヤーで適当に髪を乾かして、ふと着替えがないことに気付いた。
 静雄のアパートは六畳の居室に二畳ほどの台所が付いており、台所の横にトイレと風呂があるという単純な造りで、風呂の後は裸のまま居室に戻って服を着替えるというスタイルだったために、着替えを持ってくるのを忘れてしまったのだ。
 さてどうしよう、と途方に暮れる。幾ら何でも人の家で、半裸のまま動き回るのは如何なものか。静雄にだってそれくらいの常識はある。
 だがグズグズしていては仕事に遅れてしまう。幸いにして、静雄に与えられた部屋は洗面所を出てすぐだ。臨也がリビングにいるのなら、こっそり出れば鉢合わせることはないだろう。
 そっと洗面所の扉を開き、廊下の様子を窺う。誰もいないことを確認して、素早く部屋に入った。
 扉を閉めてほっと息を吐き、何やってんだ俺、と思わず独りごちた。
 そんなんじゃこれからもたないよ、と笑った臨也の言葉を思い出す。確かに、共同生活二日目──時間にして十数時間でこの緊張状態では、精神的にもたないような気がする。これからこの生活がずっと続くかも知れないのに。
 早く慣れなくては、と決意を新たにしながら仕事着であるバーテン服に着替える。
 時間を確認すればもう家を出なければならない時間だ。住宅地の外れである静雄のアパートよりは事務所に近くなったとはいえ、慣れない道では何があるかわからない。
 部屋を出て玄関に向かおうとして、ふと足を止める。このまま黙って出て行っていいのだろうか。鍵は貰ったから閉めて出ればいいのだろうが、やはり一言くらい声を掛けるべきだろうか。
 挨拶はきちんとしなさいと厳しく躾けられた静雄にとって、家に人がいるのに無言で出て行くというのは抵抗がある。それはすっかり習慣となっていて、独り暮らしの時も誰もいない部屋に向かっていってきますと呟くのが常だった。だがその挨拶を他人相手にしたことはなく、しかも相手は臨也だ。
 思い悩んだままそれでもリビングに足を向けると、臨也はソファの上で軽いストレッチをしているようだった。相変わらず片手にはスマートフォンを持っていて、足を伸ばしながらずっと目は画面を追っている。
「……俺、仕事行く、から」
 何と声を掛ければいいのか迷い、小声でそう言うと、振り返った臨也が顔を綻ばせる。
「はーい、いってらっしゃい」
 思いの外あっさりと返された挨拶に戸惑い、ただ頷くだけで逃げるようにその場を後にした静雄は、本当にこの生活に慣れる日がくるのだろうかと、僅かな不安を抱いていた。
[20170909][20170920update] ◆同棲TOP ◆TEXT ◆TOP