day2 : night

「一緒に暮らそうと言ったのは俺だけど、それを望んだのは君だよ、シズちゃん」
 自分でも、意図していたより随分と冷たい声が出たと思う。突き放すような口調に、静雄が僅かに息を呑んだのがわかった。
 カウンター越しに数メートルの距離を置いて睨み合う。しん、と静まり返ったリビングで時折かさりと鳴るのは、静雄の手に握られたままのコンビニ袋だろう。
 長い沈黙を経て、その唇が動いた。おそるおそる、あまり認めたくはないけれどもわかりきっている事実を確認するかのように、か細い声で。
「……怒ってんのか」
 は、と乾いた笑いが漏れた。口端が自然と上がる。言葉尻を捉えて俺は望んでなどいないと言ったりしたら、どうしてくれようかと思っていた。実にいい質問だと明らかな嘲笑を浮かべ、歌うように答えてやる。
「俺が怒ってないとでも思ったの? だとしたら随分と平和ボケしたもんだね」
 嫌味ったらしい声をわざと作ってみせた。
 そうでもしないと怒りに我を忘れてしまいそうだ。これでも言葉は相当選んでいる。本来なら、平和ボケなどという生易しい揶揄ではなく、馬鹿にしてるのかと怒鳴りたいくらいなのだから。
 怒っているのか、なんて。
 当たり前だ。臨也はずっと怒っていた。勢いで一緒に暮らすことになって、どこか夢を見ているような表情で臨也の顔色を窺う静雄の態度にも、それを宥めるように苛立ちを抑えて笑顔で接する自分自身にも。
 始まったばかりなのだから仕方がない、と納得しているつもりだった。そのうち慣れるという静雄の言葉は、前向きに考えてくれているのだろうと、素直に嬉しくも思った。
 だから臨也の怒りが爆発したのは、静雄が無理をしているんじゃないかなどと──まるで臨也を心配するような口調で、その実臨也の選択を責めていたからだ。ほら手前には無理だろうとでも言いたげに。
 あえて『望んだ』という言葉を使ってみせたが、実際には静雄はそんなことは一言も言っていない。
 一緒に暮らそうと言った臨也に、静雄は一言『わかった』と答えたけれど。そんなのは臨也が差し出した選択肢に乗っかっただけだ。流されたにも等しい。そこにどんな意図が隠されていたかなんて、きっと考えていない。
 そもそも臨也の怒りは同居の話が出る前から継続している。つい昨日、静雄に数年ぶりに再会した直後からだ。
「教えてあげようか、俺がどれだけあの時怒ってたか」
 すっと声のトーンが落ちる。震えるように揺れた鳶色の瞳を見つめ、静かに口を開いた。
「俺はさ、池袋を離れて、シズちゃんと離れて、その間ずっと君のことが忘れられなかった。やっと自分の気持ちに気付いて、何もかも──それこそ自分の命すら捨てる気持ちで池袋に戻ってきた。殺されてもいいってくらい、覚悟を決めてさ。で、あの日、まあ昨日のことだけど、君に告白したわけだ。君が好きだって。これを告げるのにどれだけの覚悟が必要だったか──と言いたいところだけど、はっきり言ってその時の俺の覚悟なんてどうでもいい」
 口角を上げた状態を保つのは相当意識していないと困難だった。
 何も言わない静雄を鋭く射抜いたまま、低く問い掛ける。
「問題は君の答えだよ。俺が好きだって言ったらさ、君、自分が何て言ったか覚えてる?」
 まさか忘れていないよね、と言外に滲ませてみせた。
 返答はない。期待もしていなかったが、それでも自然と責める口調になるのは止められなかった。
「どうすりゃいいんだ、って言ったよね。どうすりゃ手前はどこにも行かないんだ、って」
 そしてそれに続けて、もう一人は嫌だ、と独り言のような声が続いたのをはっきりと覚えている。
 その瞬間、湧き上がったのは怒りとしかいいようのないものだった。
 苛立ちという次元は優に超えていた。腹の底が煮え滾るようにかっと熱くなった。
 自分が愛されていることには気付いているはずなのに、目を逸らし素知らぬふりをして、そのくせ一人は嫌だと孤独を憂う。物欲しげな顔をして、なのに傷付くのを恐れてただぼんやりと突っ立っているだけで、自分からは何もしようとはしない。
 俺が欲しいならお前が来い、俺は怖くて動けないから、なんて──臆病も過ぎればただの傲慢だ。
 そして何よりも許せなかったのは、それでもこうして臨也が覚悟を決めて動いてみせたのに、自分が取るべき行動を臨也の選択に委ねようとしたことだ。全てを、臨也の責任にしようとしたことだ。
 ただの一つも自分の意思では決定できない──いや、しようとしない。優柔不断だからではなく、臆病だから。傷付きたくないから。間違っても、相手のせいにできるから。
 何から何まで、実に傲慢な所業だと思った。愛されるだけいいと思えなどと言いたいわけではない。そうして逃げておきながら、まるで自分が被害者のような顔をしているのが許せなかった。
「君はいつもそうだ。全てを周りの──俺のせいにして、自分のことを全く省みない」
 詰る口調で吐き捨てれば、静雄がきゅっと唇を引き結んだ。
 両手の拳に力が籠もり、左手に持ったままのコンビニ袋がガサガサと耳障りな音を立てる。
「俺が池袋から消えて、随分丸くなったって評判らしいね? 確かに暴れることは減ったかも知れない。でも同時に君は思い知ったはずだ。少なくとも君のキレ易さは自分の責任で、俺のせいじゃないってことを。俺がいなくても、君は結局暴力を振るう。成長したわけじゃない。敵意を向けられることが減ったから、暴力も減っただけだ。自分から減らしたわけじゃない」
「……どうしろって言うんだよ」
 震える声がそう呟いた。は、と鼻で笑ってやる。惜しみなく嘲笑を浮かべ、冷たい眼差しを向けた。
「ほら、またそうやって責任を俺に押し付けようとする。俺がこうしろって言ったから、俺のせいだから、って言い訳をして、まるで自分は悪くないみたいな顔しちゃってさ」
 もう静雄は何も言い返そうとはしなかった。部屋に沈黙が降りる。力いっぱい握り締めている拳が震え、ガサリとコンビニ袋が鳴る。
 このままでは埒が明かないということはわかっていた。だから臨也は息を吸って、真っ直ぐにその瞳を見据える。
「選べよ」
 冷たく響く声が、沈黙を切り裂いた。
 訝しげに眉根を寄せた静雄に、淡々と言葉を突き付ける。
「俺は君を好きだって言った。俺と暮らすなら、君には俺の恋人になってもらう。もちろん肉体関係も含めての話だ。それが嫌なら、今すぐここを出て行けばいい。簡単でしょ、だって君には戻る場所がある。そうすれば、俺は二度と君の前には現れない」
 この究極の選択を、どう捉えるかは静雄次第だ。追い詰めているかのように見えて、実際には幾らでも逃げ道がある。表面上は恋人である振りをしながら、肉体関係を拒否することだって不可能じゃない。だって、相手は平和島静雄なのだ。臨也が力尽くで何とかできるような相手ではないし、逆にこちらを力で捻じ伏せるなんて、まさに赤子の手を捻るようなものだろう。
「君の意思でどちらかを選んで、どちらかを捨てろ。決断しろよ、平和島静雄」
 しん、と何度目かの沈黙が降りる。酷く静かだった。さっきまでガサガサ鳴っていたはずの、コンビニ袋の音も聞こえない。
 そうか時計がないんだ、と場違いなことを考える。昔臨也の部屋にはアナログ式の壁掛け時計があり、カチコチと時を刻む音のせいで完全なる沈黙が訪れることはなかったように思う。
 だけど引っ越してきたばかりの部屋にはまだ時計がなかった。空調も入っていない部屋は、恐ろしいほどの静寂に包まれている。
 ガサリ。小さな音が鳴るのと、静雄が口を開くのは同時だった。
「……手前だって、そうやって俺から逃げようとしてんだろ」
 低い声が零れ落ち、ずるりと床を這うように臨也に届いた。眉根を寄せると、吐き捨てるような口調が後を追う。
「俺は、逃げようとか思ってたわけじゃねえ。でも、ずっと欲しかったものを、どうやったら逃がさなくて済むかなんてわかんなくて、……結局手前に選ばせようとしたのは、悪かった」
 それはやっと垣間見えた静雄の本心だったのだと思う。だが反射的に眉根を寄せたのは、謝罪の形をした台詞が、どうしたってそれ以外の感情を滲ませているのに気付いたからだ。
「でも手前だって、……俺が断ったら、どうせ俺と手前の仲だから上手くいきっこないと思ってたとか言って、逃げるんだろうが」
 僅かに息を呑んだ。鋭い眼差しが臨也を射抜く。鳶色の双眸が臨也を包囲し、逃がさねえぞと絡みつく。
「俺の逃げ道作ってるように見せかけて、結局は手前の逃げ道作ってんじゃねえか」
 唸るようなそれに言葉を返す間もなく、静雄は床を蹴って臨也との距離を一気に詰めた。ドサリ、と何かが床に落ちた音がする。カウンター越しに伸びてきた手が胸倉を掴み上げた。カウンターに身体を乗り出した静雄が、シンクの上に臨也を引き摺り出すように、胸倉を掴んだままの手を引き寄せる。
 片足が宙に浮いた。不安定な姿勢で、身体をカットソーの襟首だけが支えている。圧迫される苦しさに顔を顰め、それでも静雄から視線を逸らさなかったのは殆ど意地のようなものだ。
「手前の言いてえことは、わかった。肉体関係だ? 上等じゃねえか、手前が抱いて欲しいんなら抱いてやるし、抱きたいって言うなら抱かれてやる」
 至近距離から臨也を睨む視線には、確かな意思が宿っていた。それはきっと、覚悟と呼ぶべきものだ。
 ぼんやりと夢の中を彷徨うような茫洋とした光は消え、静雄が、真っ直ぐに臨也を見つめている。
 そしてほんの一瞬引き結ばれた唇が、ついにその意思をはっきりと告げた。
「だから、二度と俺から離れようとするな」
 凛とした迷いのない、けれど静かな怒りに満ちた声だった。
 息が唇に触れるほどの距離で、ぎらぎらと憤怒に燃える瞳が臨也を映し込んでいる。その激しさのわりには怒りに我を忘れることもなく、正気を保っているらしい。
 ああ、丸くなったというのは本当なのかも知れない。睨み合ったままそんなことを思う。
 だって臨也の知る静雄なら、もうとっくに臨也を殴り飛ばしていただろう。なのに強い力で掴み上げられてはいるが、それ以上の暴力を振るおうとはしない。殺意に似たものが肌を滅多刺しにしているが、それは酷く冷静だった。
 どうやら本気で怒らせたらしい。だってその凶器のような殺意は、数年前のあの夜に感じたものとよく似ている。
 もしかしたら静雄も、ずっと怒っていたのかも知れない。あの夜、臨也が逃げたことに。この期に及んで、逃げ道を用意していたことに。
 は、と吐息のような笑みが漏れた。馬鹿にしているのかと、睨む双眸に力が増す。だがそれには口端を上げただけで、何も答えなかった。
 静雄の指摘は的を射ていたと思う。自覚はなかったが、確かにそうだ。図星を指されて言葉を失ってしまったことで、確信を与えてしまったことは不覚だった。
 だがそれが同時に互いの逃げ道を奪う。危機感を覚える反面、酷く満足していた。
 臆病で傲慢な静雄らしくない選択だと思ったが、それでこそ平和島静雄だとも思う。
 臨也の誘いにほいほいと乗り、流されるがままに日々をぼんやりと過ごすような腑抜けを相手にするつもりはない。
 静雄への気持ちに気付いた今、もう殺し合いをしたいとは思わないものの、ぶつけ合うのは本気でなければならない。静雄に逃げることを許さないならば、自分の逃げ道も断つべきだと、考えを改める。ギリギリのところで向き合うことをしなければ、あの夜以上の結果なんて導き出せるわけがない。
 平穏な日常が欲しいなら力尽くで奪い取ってみせろと、矛盾したことを思う。欲しいものがあるなら、自分で選んで掴み取れ。それが、この数年で臨也が得た教訓だった。
「さすがシズちゃん、実に短絡的な結論だ」
 小馬鹿にした口調にも、静雄は力を振るおうとはしなかった。怒りを漲らせたまま、臨也の真意を探るように眼差しに力を籠めている。
「いいだろう、お互いに逃げるのはナシだ。正面からやり合おうじゃないか。君がどこまで本気か、見せてもらうよ」
 未だ締め上げられたままの手を軽く叩くと、ゆっくりとその手から力が抜けた。
 不安定な姿勢を保っていた足の裏に床の感触が戻る。伸びた襟元を適当に直し、その手を静雄に差し出した。
「これからよろしく、シズちゃん」
 挑むような眼差しを向けると、その目がぎらりと獣のように光る。ほんの数秒睨み合った後、ゆっくりと静雄は臨也の手を握った。





 こうして──同居二日目にしてようやく──臨也と静雄の同居生活が本当の意味で始まったのだ。