盤上のキング

 折原臨也が死んだ。

 週明けの月曜日、池袋の街を駆け抜けたその噂を、平和島静雄は意外なところから聞くことになった。
 仕事上の上司である、田中トムである。

「……マジっすか」
「や、俺も今朝ロッテリアで隣の奴らが喋ってるのを聞いただけで詳しくは知らねーけどよ、なんかブクロでそんな噂が出回っているらしい。新宿の情報屋でブクロに顔出す奴なんてそうはいねーしなあ」
「あのノミ蟲が……」
「そいつらが言うには、何でも、誰かに刺されたとか何とか……」

 曖昧だが、いかにもありそうな話だ。静雄を含め、臨也を殺したいと考えている人間なんてごまんといるだろう。
 そういえば、ここのところ臨也の姿を見ていない。
 臨也が拠点としているのは新宿であり、池袋で姿を見なくても当然といえば当然なのに、何故か臨也はふらりと静雄の前に姿を現すことが多かった。
 道端でばったり偶然出会ったという風にもとれるが、静雄はそれを完全なる偶然だとは思っていない。
 確かに臨也が池袋に来ているのは情報屋とかいう胡散臭い仕事のためなのかも知れないが、それにしては会う頻度が高すぎる。
 もっとも、静雄が臨也の居場所を嗅ぎつけてしまう、というのもあるだろう。臨也が池袋に来ている時は何となくわかる。空気が淀んでいるような気がする、と思った時は近くに臨也がいる証拠である。
 そんな時、静雄は苛立ちを制御できずに、あのノミ蟲をぶっ殺す、それだけで頭がいっぱいになって気配を辿りながら臨也の姿を探し出し、池袋の街で追い回すはめに陥るのだ。
 また、それとは別に、臨也の方から近づいてきて、まだ生きてたのシズちゃん、そろそろ死んでよね、と爽やかな、なのに人を挑発する笑顔でナイフを突き立ててくることもあった。
 もっと言えば、静雄が仕事で怒りを爆発させた後、収まりきれない時は新宿の臨也の自宅兼仕事場であるマンションまで乗り込んでいくことすらある。大抵は玄関先でのやりとりで、臨也が静雄を外に連れ出すので中に入ったことはないが、ノミ蟲の癖にやたらと高級っぽいマンションに住んでいて、それすら静雄にとっては腹立たしい。
 別々の街に住んでいる割には接触頻度は高い。
 だが、確かに先週あたりから臨也の姿は見ていないし、静雄が新宿に殴り込みに行くこともなかった。
 ここ暫くは仕事上のちょっとしたトラブル以外では穏やかな日々が続いており、静雄が怒りを溜めこむこともなかったのだ。

「……俺、ちょっと抜けていいっすか」
「まあ今日の回収は終わったからいいけど、何お前、新宿まで行くつもりなのか?」
「ええまあ、噂の真偽を確かめたいんで」
「何だかんだ言いつつ、心配してんのかよ」
「そうじゃないんすよ、トムさん」

 静雄はサングラスを外し、胸ポケットに入れながら苦笑した。

「もしまだ生きてたら、止めを刺しに行くだけっす」

 穏やかに微笑む姿とは対照的な、黒く渦巻いた殺気が静雄を包み込む。
 これは関わらない方が良さそうだと瞬時に判断したトムは、手首から上だけをひらひらと振った。

「お前は直帰しましたって社長に言っておいてやるよ」
「すんません、ありがとうございます」

 そう言って雑踏の中に足を踏み出した静雄の背中を見ながら、トムはぽつりと呟いた。

「あそこまでの執着ってのは愛とどう違うんだかね」





 新宿の夜は長い。
 夕暮れの早いこんな季節では、まだ日の高いうちから闇の気配を引きずった男女が街に立ち、そして夜明けと共に眠りにつく。
 その頃にはスーツ姿のサラリーマンが街を埋め尽くしていて、賑わいが途絶えることはない。
 静雄は仕事帰りのサラリーマンと夜の世界に生きる人間が混在する街を、目的地目指して足早に歩いていた。
 この街では静雄の名前を知っている人間はそう多くはなく、誰にも絡まれることも声を掛けられることもないままに臨也のマンションまで辿り着ことができた。
 もう何度か足を運んでいる扉の前、そういえば一度ここに貼られていた臨也の罠にはまって池袋の街を逃げ回ったことがあった。
 そんなことを思い出し、苛立ちを募らせながらインターホンも押さずにドアノブを回す。
 がちりと音を立てた扉の抵抗をものともせず、静雄は鍵の掛かっていたそれを難なくこじ開けた。

「やあ、シズちゃん」

 待ち舞えていたかのような忌々しい声は確かに奴のもので、どこに行こうとしていたのか、ちょうど廊下に立っていた臨也と目が合う。

「手前、やっぱり生きてやがったなあ……」
「思ったより早かったね。まさかシズちゃん直々に来てくれるとは思わなかったよ。いや、半分くらいは予想通りかな? シズちゃんがこんなチャンスを放っておく訳ないもんね」
「心配するな、すぐ噂を現実にしてやる」
「まあ待ってよ、その前に何で俺があんな噂を流したかとか気にならないの?」
「どうせまた何か企んでやがるんだろうが」

 革靴のままズカズカと玄関に上がり込む静雄から微妙に距離を取り、せめて靴くらい脱ぐとかさあ、そもそも鍵を力技でこじ開けるとかどうなの、人の家を訪問する時のルールくらい守ってよね、と口では言いながら、実際は何も期待していない声の主を睨みつける。
 臨也の言うことなんて聞いても何の得にもならない。どころか、寧ろ耳を傾ければ自分にとって良くない方向に転がる、と知っている静雄は臨也の答えを待たず、まず拳を振り上げた。
 だが付き合いも長ければ間合いも見切られる。
 ひょいとそれを容易く避けた臨也が、静雄を誘い込むように部屋の奥へと繋がる扉を開けた。

「まあ入ってよ。その前に靴脱いでね。それがここ日本の常識だからさ。まあそもそもシズちゃんが常識の枠外の存在なんだけど、それでも一応ルールだから」

 臨也を追えば自動的にその部屋の中に足を踏み入れることになる。
 そういえば今までここには入ったことがなかったなと思いながら、自身が非常識な存在でありながら意外と常識を弁えている静雄は渋々と靴を脱ぎ、玄関に向かって放り投げた。
 ぼこん、と音を立てたその行方を確かめることもせず、臨也に誘われるまま部屋に入って行く。
 臨也は大きく両腕を広げ、芝居がかった仕草で静雄を振り返った。

「ようこそ、俺の城へ!」

 広い部屋だった。大きな窓からは夕暮れに沈む新宿の街並みが見える。
 その前にL字型に配置された机にもたれ掛かり、臨也が首を傾げるようにして静雄を見る。

「俺がどうして今日に限って危険を冒してまでシズちゃんを部屋に入れたかわかる? 他人には聞かれたくない話だったからさ。噂の伝播の迅速さは今日証明されたばかりだからね」

 臨也の表情は窓から差し込む夕日が逆光になってよく見えない。
 だから静雄は注意深く辺りを見回しつつ、いざという時に武器になるものを探した。これはもう癖のようなものだ。
 他人に聞かれたくない話、というよりも、どちらかというと静雄も聞きたくないような話のような気がする。
 今はまだギリギリ限界を保っているが、臨也の話次第ではこの机の上に乗っているパソコンなどはお陀仏だろう。
 この机くらいしか、咄嗟の時に武器にできるようなものはないからだ。

「俺はシズちゃんの理屈も道理も通用しない暴力が苦手だし、早く死んでくれないかなって思ってる。それは事実だよ。でも何で人間を愛する俺が、シズちゃんだけは愛せないのかな? シズちゃんが化け物だから? 違うね、そんな単純な問題じゃない」
 
 一人で設問を提案しては一人で回答を述べた臨也の言葉に、静雄は内心で、んなもん知るか、と吐き捨てる。

「シズちゃん以外の人間を、俺は平等に愛せる。シズちゃんだけが例外だ。シズちゃんだけが俺にとって特別だっていうことに他ならない」

 臨也が何を言いたいのかさっぱりわからない。
 また訳のわからないことを言い始めた臨也に対して苛立ちが募り、拳を握りしめる。
 そんな静雄に気づいているのかどうか、臨也はやたらと整った顔に笑みを浮かべて、体を乗り出した。

「これって、限りなく愛に似てると思わない?」
「……ああ?」
「つまり、俺はシズちゃんを愛してるってことだよ」

 思考が停止した。
 臨也が、静雄を、愛している?
 何を言っているんだこいつは。

「それも他の人間たちとは別の次元で俺はシズちゃんを愛している。その世界にはシズちゃんしかいない。究極の愛だよ」
「……手前に愛されたってなあ……っ」

 嬉しくなんかない、そう反論する筈だった言葉は小さくなって静寂に溶け込んだ。
 臨也に愛されても嬉しくも何ともない、本当にそう言えるだろうか。
 静雄は常に孤独だった。誰かに愛されることを求めていた。
 初めて静雄を愛してくれたのは女ではなく、刀だった。刀の集団だった。
 それでもそれが愛に飢えている静雄にとって自身を満たしてくれた初めての存在であることは確かだ。
 この際女だろうが刀だろうが男だろうが、そんなものは些細な違いでしかない。
 静雄を愛すると言う者がいる。それがたとえ口先だけであろうとも、そんなことはどうでも良かった。
 愛していると言ってくれる、それだけで静雄は救われるからだ。その言葉に、縋ろうとしてしまうからだ。
 だからこそ、反論することができなかった。
 静雄の戸惑いを見透かしたように、臨也が畳み掛けてくる。

「嘘だね、シズちゃんは俺に愛されることを望んでいる筈だよ。誰かに、じゃない、『俺に』、だ。よーく考えてみて。まあ答えなんてもうわかってるも同然なんだけど、きっとシズちゃんが自分で気付かないと意味ないから」
「…………?」

 自分で気付かないと、とはどういう意味だろうか。
 臨也の言葉の意味を考えてはみたが、どうにもよくわからない。
 誰かに愛されることを望んでいる、それだけでは駄目なのだろうか。
 他の誰でもなく臨也に愛されることを望む、そんなことは有り得ない。
 それではまるで臨也が特別な──特別な?
 特別な、何だって言うんだ?
 混乱して黙り込む静雄を見て、臨也はハハ、と声を上げて笑った。

「わかんないかあ。じゃあご褒美はあげられないな。答えがわかったら、またおいで。お帰りはあちら」

 訳がわからないまま促されて、静雄は狐につままれたような顔をしながら投げ出した靴を履いて臨也の部屋を出た。
 臨也は開け放されたままの扉に背を向けて、眼下に広がるの新宿の街並みを眺める。

「俺がやっと真実に辿り着いたのに、シズちゃんが辿り着くのはいつのことになるのかなあ」

 今日か、明日か。半年後になるか、はたまた一年以上かかってしまうのか。
 それでも臨也は待ち続けるだろう。
 静雄が愛されたがっているのは知っている。本当は皆に愛されているのに、静雄はそれに気付かない。
 愛していると、伝えなければ静雄にとってそれは真実ではないのだ。

 マンションから出てきた静雄の後ろ姿を見下ろし、臨也はうっそりと笑いながら独りごちた。

「まあ待たされるのも、悪くはないけどね」

 臨也が静雄を愛している、ただそれだけではない。
 静雄は臨也だけを追いかける。殺そうとする。明確な意思を持って、特定の対象に、暴力をふるおうとする。
 つまり臨也だけが、静雄の執着を受け続ける。
 それが愛とどう違うというのだろう。
 そのことに気付いている人間は他にもいるかも知れない。だが静雄だけが未だに気付いていない。
 愛されていることにも、愛していることにも、静雄だけが気付かない。
 だがそれでいい。
 盤上のキングは、孤高であらなければならないのだ。

 静雄が真実に辿り着いた時には、ありったけの言葉を尽くして静雄に愛を囁いてやろう。
 静雄がどんな顔をするのか、考えただけで楽しくなってくる。
 臨也はくるりと踵を返し、雑多な碁盤の上に載せられた一つきりのチェスの駒であるキングを軽く弾く。

「だからそれまでは、誰のものにもなっちゃダメだよ、シズちゃん」

 キングはころころと碁盤上を転がり、それを見つめる臨也の瞳は、類を見ないほど優しく微笑んでいた。

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