恋のレッスンABC

 物事には順序というものがある。
 1の次は2、2の次は3だ。いや、ここは正確に言おう、Aの次はB、Bの次はCだ。今自分達が立っているのはBの地点だから、その次はCなのだ。
 しかしどうやって先に進めばいいのかわからない。きっかけが必要だ。何か、何かいいきっかけは。

「いつまで待たせるつもりだ」

 思考を中断されて、成歩堂は形だけ視線を落としていた書類から顔を上げた。目の前には腕を組んだ御剣が不機嫌そうな顔で立っている。
 ヤバイ。怒らせた。

「貴様が少し待てと言うから待っていたというのに、先程からその書類は1ページたりとも進んでいないではないか」

 確かに、机の上の書類はまだ最初のページのままだ。仕事の後事務所に寄ってくれた御剣に、この書類だけ読ませて欲しいと適当なことを言ったのだが、そんなものこれっぽっちも読んでやしない。
 御剣もソファに座り書類を捲っていた筈だが、どうやら仕事なんてただの言い訳だということに気付かれてしまったようだ。せめてページくらい捲る振りをするべきだったと悔やんだが、それももう遅い。

「人をこれだけ待たせたからには、それなりの説明をして貰おうか」

 鋭い視線で見下ろされて、成歩堂は情けなく特徴的な眉尻を下げる。
 どうして言うことができようか。御剣との関係を先に進めるきっかけを探している、だなんて。
 先程考えていたABCとは、まさしく中学生の頃に隠語として使っていたアレだ。つまりAはキスで、Bはペッティングで、Cはセックスだ。
 告白して、キスはした。多少時間はかかったが、その先にも進んだ。深く貪るようなキスで昂ぶった御剣の中心を愛撫して、射精に導くことができた。何度もそれを繰り返しているうちに、御剣も成歩堂のそれに触れてくれるようになった。
 だとすれば、次はセックスだ。
 成歩堂に男同士のセックスの経験はない。実を言えば女性とのセックスの経験もないのだが、それはこの際関係ない。女性とのセックスと男同士のそれとは、全く違うもののように思えるからだ。
 まず、挿入する場所がない。成歩堂なりに色々調べた結果、男同士のセックスで挿入する場所なんて1つしかなく、通常はその部分を使用するようだが、そんな場所にあんなものが入るとは思えない。無茶をすれば大変なことになるだろう。
 次に問題なのは、どちらがどちらに挿入するか、だ。成歩堂としては御剣への気持ちに気付いた時から童貞は御剣に捧げると決め付けていたので、挿入する側に立ちたいところだが、プライドの高い御剣が果たしてそれを許してくれるかどうか。
 そして、きっかけ。どれもこれも相手の協力が必要なことばかりの上、とにかく経験がないので流れに任せるということもできず、とにかく御剣にお伺いを立てたい。だが、何と切り出せばいいのかわからない。
 君とセックスしたいから僕に挿れさせてくれないか、なんて言おうものなら御剣は怒り狂うかも知れない。下手をすればせっかく実った想いもパアだ。それだけは避けたい。

「説明しろ、と言っている」

 御剣の眉間の皺が深くなった。あれこれ考えているうちに怒りを倍増させてしまったらしい。
 成歩堂は決心した。ここはそれとなく話をそっちの方に持って行くしかない。口が商売道具である弁護士の腕の見せ所だ。

「あのさ、御剣、僕たちのこと、なんだけど」
「何だ」
「その、これから先……どうやって付き合っていくか、っていうか……」
「……キミと結婚しろとでも言う気か」
「いや、そうじゃなくて、その……キスはしたし、その次も……なんだけど、最後の難関が待ち受けてるっていうか」

 言いながら成歩堂は拳を握り締める。ここからが勝負だ。御剣が拒絶の表情を見せたら即座に否定しよう。何とか誤魔化すしかない。
 ──なんて考えていた、のに。

「何だ、セックスのことか」

 あまりにもさらりと言われて成歩堂は面食らう。御剣の美しい薔薇のような唇からそんな単語が出てきたことが信じられない。
 まさか幻聴だろうか。セックスのことばかり考えているから、脳がおかしくなったのだろうか。
 言葉を失っている間に、御剣は顎に手を当てて考える仕草を見せた。

「私もそろそろ先に進むべきだとは思っていた。だがキミが今の関係に満足しているならそれでもいいかと考えていたのだよ。まあ、キミも男なら当然の流れだな」
「あ、の……御剣?」
「何だ」
「怒らない、の?」
「愛し合っている2人ならば当然だろう?」

 そう言って御剣はほんの少し微笑んだ。その花が咲くような笑顔に胸の奥がきゅう、と絞り上げられる。
 愛し合っている、と御剣は言った。想いを受け入れてくれたことが未だに信じられないような気持ちでいた成歩堂には、それがとても嬉しい。
 今すぐに抱き締めて服を脱がせて滅茶苦茶にしたい衝動と戦いながら、必死に言葉を探す。

「それで、その……」
「こちらとしては今日が有難い。明日は仕事が休みだからな、キミが多少無茶をしても何とかなるだろう。キミは知らないかもしれないが、受け入れる側には相当負担がかかるものなのだよ」
「え」

 何故御剣がそんなことを知っているのだろう。まさか御剣には経験が、と考え始めた瞬間、周囲の男たちの顔が走馬灯のように成歩堂の頭の中を駆け巡った。狩魔が、厳徒が、糸鋸が、亜内が、裁判長が、成歩堂を嘲笑うように脳内に現れては消えていく。

「どうした?」

 不思議そうに成歩堂を見つめる御剣の瞳は一片の曇りもなく澄み切っている。成歩堂は深呼吸をして気持ちを落ち着けようと努力した。
 いや、余計なことを考えるのはやめよう。ここはただ御剣を信じるべきだ。そうだ、御剣がせっかく受け入れてくれると──受け入れる?

「君、受け入れる側になってくれるの?」

 ぽかんと見上げると、御剣は僅かに首を傾げた。視線が成歩堂の机に隠れて見えない筈の全身を往復し、それから何かを思いついたように深く頷く。

「キミがそう望むのなら、私がキミを抱いても──」
「待った!いやいや、それは無しの方向で!」

 焦って立ち上がった成歩堂に、御剣はくすりと小さな笑みを漏らした。向けられた薄い灰色の瞳は明らかにこの状況を楽しんでいる。

「冗談だ」
「勘弁してよ、もう……」

 力が抜けてどさりと再び椅子に座り込む。さっきから翻弄されっぱなしだ。当初握っていたと思っていた主導権はどこに行ってしまったのか。いや、もしかしたら最初から御剣の手のひらの上だったのかも知れない。
 ふう、と溜息を吐くと、笑みを湛えたままの瞳が机越しに近づいてくる。目を閉じて、その唇を受け止めた。何度か軽く合わせた後、舌先で唇をなぞると柔らかいそれが薄く開く。その隙間から侵入して歯列を辿り、上顎を擽ると、御剣が鼻にかかった吐息を漏らした。

「じゃあ、双方合意ってことで」
「……うム」

 頷いた御剣の瞳は潤み、頬は僅かに上気している。その艶めいた表情に一気に中心が昂ぶり、成歩堂はそれから先のことを考えるのをやめた。
 御剣も興奮している。なるようになる、というより何とかなるだろう。たとえ失敗してもきっと御剣なら付き合ってくれる。愛し合っている、2人だから。
 机の上に屈み込んだ背中をそっと撫で、再び唇を合わせようとすると、吐息の触れ合う距離で御剣が小さく囁く。

「……いつまで待たせるつもりだ……」

 今日二度目の台詞に成歩堂は苦笑して、ごめんね、と呟き、そのすんなりと伸びた首筋にキスを落とした。
[20090715] ◆TEXT ◆TOP