冷たい唇
キスがしたい。
唐突に湧き起こった衝動に、成歩堂は自らの唇に指を当てた。視線を横に流せば、その衝動が向かう先である人物が分厚い書類を捲っている。
御剣が成歩堂の事務所に来る事は珍しい。しかもその理由が、かなり前に終わった事件の資料を見せて欲しいなどというものだから、成歩堂の期待は否が応でも高まってしまう。
御剣に、好きだと伝えたのはほんの一週間前。
二人で飲みに行った席で、ほんの少しの酒の力もあって、ずっと隠し続けて来た気持ちを伝えた。御剣はほんの少し驚いたような顔をして、でも次の瞬間、小さな花の蕾が綻ぶように、綺麗に笑ったのだ。それから、私もだ、と一言。
夢みたいだ、とどこか信じられない気分でいるのは、きっと二人の関係性に変化が見られないからだ。
指先が触れ合ったのもその時だけ。それから一週間、御剣の仕事が忙しくて会う事も出来ずに、成歩堂はただ悶々としていた。
だから御剣が成歩堂の事務所に来ると言った時はささやかな期待を抱いたのに、先程から御剣は資料から目を離そうとはしない。
清廉な横顔を眺めながら、もう一度、キスがしたい、と思った。
その薄い唇に自分の唇を押し当てたい。きっと柔らかくて、そして成歩堂のそれよりは少し冷たいだろう。体温を分け与えて、元から一つであったかのように馴染むまで、時間をかけて触れ合わせたい。
御剣は、きっと拒まない。
それは根拠のない自信ではあったけれども、何故だか成歩堂はそんな気がした。
驚くかも知れない、たじろぐかも知れない、だけどきっと拒まれはしない。
夢みたいだと信じられない気持ちはあるけれども、それでもあの時の笑顔は本物だったと思うから、御剣が成歩堂の事を好きだというのは紛れもない真実だ。
「ねえ、御剣」
名前を呼ぶと、御剣は顔を上げてこちらを見た。並んで腰掛けたソファの上、少しだけ距離を詰めて、顔を寄せて囁く。
「キス、してもいいかな」
御剣は驚いたように目を見開いたが、その瞳に拒絶はなかった、と思う。
ふいと逸らされた視線が書類の上を逡巡するように彷徨って、再び成歩堂に戻る。白い指先が書類をローテーブルの上に置くのを、視界の端で捉えた。
「うム」
こくり、と僅かに顔が傾いて、それにつれて前髪がさらりと揺れる。
緊張に震える指を叱咤して御剣の頬に触れた。ひんやりとした感触、ああやはり御剣は体温が低いんだなと実感する。
御剣が怯えないように、とゆっくり顔を近付けて、薄く開かれた唇から漏れる吐息に目を閉じた瞬間。
首の後ろに重みを感じ、引き寄せられる力にバランスを失って倒れ込んだ。
「み…………」
「遅いのだ、キミは」
吐息が混じり合う距離で囁かれて、目を見開く。
見上げる瞳には滾るような熱が篭っていて、普段の怜悧な印象はどこにもない。こんな姿をどこに隠していたのか、しかし目の前にいるのは確かに御剣で、何かを言おうと唇を開くと同時に再び首に回された腕の力が増す。
「私がどれ程待ったと思っている」
言葉の意味を考える隙を与えずに、その薄い唇が押し当てられた。
漸く触れた御剣の唇は、思っていたよりもずっと、熱かった。