生きているという実感

 鍵穴に差し込んだ鍵を、極力音を立てないようにゆっくりと回した。
 ぎりぎり通れるくらいに扉を開け、そっと身体を滑り込ませる。
 微かに明かりが漏れているが物音一つしないリビングを見遣り、1つ溜息を吐いた。

 彼はもう、寝てしまったのだろうか。
 時刻は夜の1時。明日も学校があるから、それも当然なのだが、やはり少し残念に思う。
 遅くなるかも知れないから先に寝ていて下さいと、言ったのは自分なのだけれど。
 今日―――日付的にはもう昨日になるのか、彼がせっかく部屋に来てくれたのに、2人で過ごす時間なんて殆どなかった。例のアルバイトの呼び出しがあったからだ。

 彼が僕の部屋に来てくれる事は滅多にない。学校もあるし、団活もあるし、何よりも彼には帰るべき家がある。久しぶりに人目を気にせず彼と過ごす事が出来ると思っていたのに、着信音1つでぶち壊しだ。
 彼は気にせず行って来いと言ってくれたけれど、気にならない訳がない。ただでさえ24時間365日、いつ呼び出されるかと恐々として過ごしているのだ。せめて彼が一緒にいてくれる時間くらい、呼び出しは勘弁して貰いたい。いっそ、携帯電話の電源を切ってしまいたいくらいだ。

 ―――なんて、彼には到底言える訳がない。

 彼は意外と責任感が強い人だから、そんな事をすれば激怒するに決まっている。僕だってこの仕事を生半可な気持ちでやっている訳ではない。それが自分の使命なのだと、正しく理解しているつもりだ。
 だけど、本当は精神的にも肉体的にも、結構、辛い。彼に心配をかけたくないから口には出さないけれども、世界を背負って神人と戦うには相当な体力と覚悟が必要なのだ。
 それを彼に理解して欲しいとは思わない。寧ろ、難なくこなしていると思われた方がいい。
 でも、こういう時くらい、仕事より彼を優先したいと―――実際にそうする訳ではないのだから、そう思うくらいは、許して欲しいと思う。
 彼は、それすらも許してくれないかも知れないけれど。

 彼を起こさないように静かにリビングに足を踏み入れ、そこに彼の姿を見つけて、息を呑んだ。てっきり寝室にいると思っていたのに。
 スウェット姿の彼はソファに横たわり、安らかな寝息を立てていた。右手はソファから滑り落ちて、その先には雑誌が落ちている。きっと雑誌を読みながら眠ってしまったのだろう。
 つまり彼は、待っていてくれたのだ。誰もいない部屋で暇を持て余しながらも、僕の事を。
 ソファの前に膝をつき、彼の顔を覗き込んだ。
 いつも気だるげに半ば下ろされている瞼が、今は完全に閉じている。薄く開かれた唇から規則正しい吐息が聞こえる。

 触れたい、と思った。
 その瞼に。その唇に。

 起こしてしまうだろうか。いや、起こしてしまうに決まっている。こんな時間まで僕を待っていてくれた彼の安らかな眠りを邪魔したくはない、だけど。
 逡巡していると、黒い睫が細かく震えた。
 一呼吸置いてから、その目が、開く。

「………こい、ずみ………?」

 ぱしぱしと瞬きをして、それから、―――その瞳が、ゆっくりと笑んだ。

「………おかえり」

 僅かに動く唇がそう言って、僕は唐突に、帰って来たのだと実感した。

 閉鎖空間に侵入した後は、いつも不安になる。
 本当に自分はあの神人を倒せたのか。この世界は新しい世界に入れ替わっていたりしないか。自分は自らの使命をちゃんと果たせたのか。―――彼は、この世界に存在するのだろうか。
 その不安は翌日、彼に会う時まで続く。世界が変わっているのだとすれば、まず変化するのは彼だと思うからだ。涼宮ハルヒが彼を選ぶのは最早規定事項であるから、何らかの変容があったとすれば、この世界に彼がいないか、もしくは僕との関係性が今とは違ったものになるという結果を生む筈だ。
 だから、表面上はいつも通りの挨拶を交わしながらも、その表情の僅かな変化に注視する。いつものように顔が近いと眉を顰める彼の、その瞳に真の拒絶の色がないかどうかを確認する。
 そうしてやっと、僕は安心できるのだ。

 だけど、今。
 僕がそれを確かめる前に、彼は僕を迎えてくれた。何の衒いもなく、ただ純粋に、お前の帰って来る場所はここなのだと。
 その事が、こんなにも。

「何だ?お前、変な顔してるぞ」

 眠そうな目を擦りながら彼が体を起こす。腕を上げて伸びをして、小さな欠伸を1つ。
 そのまま首の後ろに手を遣り、肩をこきこきと鳴らして、僅かに眉根を寄せた。

「…………何だよ、俺の寝起きがそんなに珍しいか?」

 しまった。つい彼に目を奪われていた。

「あ、いえ、………すみません、起こしてしまいましたか」
「あー、いや、寝るつもりはなかったんだが……いつの間に寝たんだろうな」

 独り言のような呟きに、思わず笑みが零れた。
 やっぱり待っていてくれたのだ。いつ帰って来るともわからない僕の事を。
 ―――幸せ過ぎて、泣きそうだ。

「風呂、勝手に借りたぞ。お前も入って来いよ」
「ええ、そうします。先に寝ていて下さって結構ですよ」
「んー、そうだな」

 曖昧に頷いた彼は、すとんとソファに腰を下ろし、床に落ちていた雑誌を拾い上げた。
 膝の上に広げた雑誌の折り目のついた部分を伸ばし、ぺらぺらとページを捲り始める。

「………いいから、早く入って来い」

 彼は僕を見ない。視線は雑誌に落とされているけれども、とても中身を読んでいるようには見えない。
 ただ手持ち無沙汰に光沢のある紙の端を弄り、欠伸を噛み殺している。
 ―――これは、もしかして。

「………待ってて、下さるんですか?」

 問い掛けると、ほんの一瞬僕を見て、また手元に目を落とした。
 その間、彼はずっと無言で。
 悪戯に、指先だけが動いている。

「すぐ、すぐ入って来ますから!」

 慌てて立ち上がり、浴室に向かう。
 何て事だ。彼が、僕を待っていてくれる。散々待たされてもう眠りたいだろうに、それでも僕を待っていてくれる。
 きっと、彼も僕との時間を大切にしてくれているのだ。彼は自惚れるなと言うだろうけれども、これはもう、確信に近い。
 いつ全てが変わってしまうかもわからない、何も確かなものなどないと思っていた世界で、唯一彼だけが僕に確信を与えてくれる。彼が生きている実感を、僕が生きている実感を与えてくれる。
 これからも何度も不安になるだろう。彼を失う事を恐れて、立ち止まる事もあるだろう。
 でも、少なくとも今は、彼はここにいる。
 だから僕は、彼のいるこの世界を命を賭けて守ろう。彼と生きるこの時間を、できる限り大切にしよう。

 その為なら彼はきっと、僕を待っていてくれるだろうから。
[20071109] ◆TEXT ◆TOP