葛藤
「良かったら、家に遊びに来ませんか」
金曜日の帰り道。いつもの坂道を下りながら古泉がそう囁いた瞬間、どくんと大きく脈打った心臓の音が聞こえてしまうのではないかと真剣に考えた。
俺と古泉が、互いの気持ちを確認し合ったのはもう一ヶ月程前の事だ。好きだと明確に言葉にした訳ではない。だけど誰もいない部室でふと指先が触れ合った瞬間、近付く古泉の顔をいつもの様に気色悪いと振り払う事は出来なかった。視線が絡み、示し合わせたように瞼を下ろして、唇を重ねていた。
それが自然な流れだと、何の疑問も抱かなかった。
その日から、俺達の距離は急速に近付いたように思う。物理的なものではない、精神的な距離だ。
事務的な連絡にしか使っていなかった携帯電話に登録された番号を、呼び出す回数が格段に増えた。平日休日昼夜を問わず、気が向けば携帯電話を手にしている。電話の時もあればメールの時もある。会話の内容は他愛のないもので、別に団活の時や帰り道にも出来るような話でも、俺達は機械越しに、ただし二人きりでそれをする事を好んだ。
今思えば、二人だけの秘密を作りたかったのかも知れない。
そしてそれだけには止まらず、最早恒例となっている市内パトロールがない週末には、二人で街まで出掛け、特に何をするでもなくぶらぶらと時間を潰すようにもなった。
多分それは、所謂デート、というやつだ。
男同士で何がデートだ、と思わなくもないが、互いに恋愛感情を抱く二人が誰にも邪魔される事なく二人きりで出掛ける、というのは紛れもなくデートなのだろう。そんな事を考えてしまう程度には、俺の頭もおかしくなっている。
そして今度は、古泉の家への誘いだ。
まだ一度も訪れた事のない、古泉の家。俺はこいつがどんな家に住みどんな生活をしているのか、全く知らない。知りたくもない、というのは明確な嘘だ。俺はこいつの事なら、何でも知りたいと思っている。
だがそれにはたった一つ、問題があった。
古泉は一人暮らしだと聞いている。俺の認識が間違っていなければ、所謂付き合っている、という状態にある二人が、一人暮らしの相手の家に遊びに行く。
それがどういう事を指すかなんて、今時中学生どころか、小学生でも知っているかも知れない。いや、もしかしたらうちの妹は知らないかも知れない。知らない筈だ。寧ろ知っていて欲しくない。兄として許せない。
それはともかく、まあ、そういう事に―――なるんだろうな、多分。
これが俺を躊躇させるいちばんの原因な訳だ。
ここで古泉が一緒にDVDでも見ませんかとか、面白いゲームがあるんです、とでも言ってくれれば―――果たしてその言葉に信憑性があるかどうかは謎だが―――俺もそう深く考えずに気軽に遊びに行けるのかも知れない。
だけど、古泉は何も言わない。家で何をしようとか、そういった計画性のある言葉は奴の口からは出て来ない。
という事は口に出せないような事をするつもりなんじゃないだろうかと、俺は純情な女子中学生のように警戒してしまうのだ。
はっきり言って、怖い。
笑いたければ笑えばいい。だが俺は本気だ。ここで一線を越えてしまえば、俺はどうにかなってしまうんじゃないかと、真剣に恐怖しているのだ。もうこれは理屈がどうこうという話ではなく、本能的なものだ。
事実、今までは何だかんだと理由をつけて断って来た。家でお袋が飯作って待ってるからとか妹の宿題を見てやらなければならないからとかシャミセンの爪を切ってやらなければならないからとか、もう最近では理由を探すのも一苦労で、そういえば先日なんかは翌日数学の小テストがあるなどという、だったら理数クラスの古泉や破天荒な癖に勉強はよくできるハルヒのいる団活の時に勉強すればいいじゃねえかと自分で突っ込みを入れてしまうような事を口走ってしまった。
その度に古泉は、そうですか残念です、と少し寂しそうな顔をして微笑んだりなんかして、でもその理由を深く突っ込んで来る事は全くなく、俺が何を考えて断っているのかなんてしっかりはっきりバレているんだろうなと思う。
申し訳ない、と思わなくもない。いや、正直、そう思っている。俺達の肉体的接触はあの可愛らしいキス一度きりで、それから俺は意図的に古泉に触れるのを避けている。思い返せばあの最初のキスだって、よく部室であんな事が出来たものだ。それからは部室だろうが外だろうが、古泉との距離を一定に保ち、それ以上近寄らせないようにしている。
そう、精神的な距離は縮まったが、物理的な距離はかえって離れているのだ。古泉が他人の目のない自分の部屋に俺を呼びたがるのも当然だろう。
だからってなあ、そう簡単に覚悟ができる訳じゃない。
何せ俺には経験がない。キス、は別に初めてではなかったが、それ以上の事なんて初めてづくしだ。しかも男同士で何をどうするのかなんて、さっぱり見当もつかなくて、恐怖心ばかりが先に立つ。いいじゃねえかキスだけで、なんて思っている事は流石に口にはしてないが。
だがしかし、その一方で、古泉とそうなる事を望んでいる自分がいる。
健全な男子高校生たるもの、相手が男であるという点を除けばそういう事に興味があるに決まっている。しかし純粋な性欲とは別の意味で、古泉と一つになれるならなんて、そんな馬鹿な事を考えている。ああもう本当に馬鹿だ。頭を冷やせ、俺。この自分の脳みそを取り出して氷水でじゃばじゃば洗ってやりたい。何だその考えは。俺はそんなキャラではなかった筈なのに。
一人葛藤している俺の沈黙をどう捉えたのか、古泉は僅かに苦笑してみせた。
「すみません、突然過ぎますよね。帰りが遅くなるとお家の方が心配されるかも知れませんしね」
確かに突然の誘いではあったが、それは古泉が俺に残した逃げ道なのだと俺は気付いている。
ここ最近、何度か同じような会話を繰り返している。いい加減言い訳のストックが尽きた俺を思っての事だろう。俺がここでそうだなと頷けば、ではまたの機会に、と古泉が笑ってこの会話が終了する。そして俺はいつものように家に帰り、食事をしたり風呂に入ったりと何ら変わりないサイクルをこなし、珍しく市内パトロールのない週末を怠惰に過ごすのだろう。
それでいいのか、俺は。
現状維持なんておためごかしを名目に、いつまでも逃げ回っていていいのか。
「……そうだな」
いつもの答えを返し、それに古泉がいつものように微笑みながら紡ごうとした言葉を、早口で遮った。
「だから、家にメールするから、ちょっと待ってろ」
言い終わらない内にポケットから携帯電話を取り出し、画面を開く。文字を打つ手が微かに震えているのは寒さの所為だ、きっと。
古泉は少し目を見開いて、それから柔らかく微笑んだ。その微笑が本当に嬉しそうで、こんな風に笑ってくれるのならもっと早くこうすれば良かったと、少し、悔やんだ。