記号が情報に変わるとき

 ぱたん、と微かな音を立てて、長門有希が本を閉じた。
 それを合図に1日の活動が終了し、朝比奈みくるの着替えを待ってから5人で連れ立って帰る。それが僕がここに来てからの、毎日の日課のようになっている。
 そして今日もいつも通り朝比奈みくるの着替えを彼と廊下で待っていた。
 涼宮ハルヒと彼が閉鎖空間から戻って来てからというもの、僕と彼は以前よりも話す機会が多くなった。
 彼女の鍵であった彼のお陰でこの世界の崩壊から免れ、僕は少し浮かれていたのかも知れない。
 とは言っても、話しかけるのは大抵僕から。彼は、ふうんと気のない返事をするか、馬鹿馬鹿しいと胡乱げな瞳を向けるか、顔が近いと眉を顰めるかのどれかだ。―――今のように。

「すみません」

 にこりと笑みを見せて少し体を離す。軽く溜息を吐いた彼は、ふと思い出したようにポケットを探った。

「古泉、お前の携帯教えろよ」
「……携帯、ですか」

 オウム返しにしてしまったのには、理由があった。僕の携帯は3年前、機関に所属する事になった時に支給されたもので、今のところ機関以外の人間はその番号を知らないからだ。教えてしまってもいいのだろうか、と一瞬考える。

「………嫌ならいい」
「いえ、そういう訳ではありません。すみません、少しぼんやりしてしまって」

 彼の機嫌が急降下したのを感じ、内心慌てながら表面上はいつもの笑顔を取り繕った。
 まあ、別に問題はないだろう。僕だって彼の携帯電話の番号くらい知っている。彼に会う前、機関からの彼の身辺調査報告書に書かれていたからだ。今のところ一度も使用した事はないが。

「俺だって別に男の携帯番号なんざ知りたくもないがな。こうなった以上、お前とは当分付き合っていく事になるだろうが。ハルヒの事で、何か連絡を取る事もあるかも知れんし」

 幾分早口に言い訳じみた事を言いながら、彼は黒い折りたたみ式の携帯電話を取り出した。

「番号、」
「090の―――」

 僕が諳んじる数字を、彼は携帯電話を操作して打ち込んでゆく。
 彼がその番号を使用する機会は本当にあるのだろうか。彼の周囲に何かが起こった時、彼が真っ先に連絡を取るのは恐らく僕ではない。十中八九、長門有希だろう。だから尚更、彼が僕の連絡先を知りたがった事が不思議に思えてならない。

「よし。メアドは……いいか、めんどくせえ」

 呟いた彼は、まだ携帯電話を操作していた。
 同時にぶうん、と低い羽音に似た唸りを上げ、僕の携帯電話が震える。
 一瞬、ぎくりとした。また閉鎖空間が発生したのだろうか。涼宮ハルヒは今は部室の中で、朝比奈みくると長門有希と一緒にいる筈なのに。
 携帯電話を取り出し、液晶画面を見る。そこには、見知らぬ番号からの着信が1件残っていた。
 いや、見知らぬ、というのは正確ではないかも知れない。僕はこの番号を、見た事がある。

「それ、俺の番号な」

 さらりとそう言って、彼は携帯電話をポケットに仕舞う。僕はただ、そこに並んだ数字を眺めていた。

「あー、俺の番号くらい、お前は知ってるか。俺の事調べたって言ってたよな」
「いえ、そこまでは」

 嘘だ。確かに僕はこの番号を知っている。
 だがこれは、僕の知っていたただの記号ではない。機関が勝手に集めたものでもなく、僕が彼と過ごす事により収集したものでもなく、彼が僕に望んで与えてくれた、初めての情報だ。

「………ありがとうございます」

 自然と、口元から笑みが零れた。
 僕の携帯電話は殆ど機関との専用線だ。だからそこに登録されている番号なんて、誰からの電話であるかを識別するための記号に過ぎなかった。
 そこに彼の情報が加わっただけで、こんなにも。

「何かあれば連絡させて頂きますよ」
「下らない用でかけてくんじゃねえぞ」

 いつものような遣り取りでさえ、僕は少し彼に近づけたような気がして、単純に嬉しかった。
 彼が閉じ込められた閉鎖空間で、彼ともう少し付き合ってみたかったと言った僕の言葉は、本音だったからだ。

「お待たせー!さあ、帰りましょ」

 部室の扉が開き、中から涼宮ハルヒが顔を出す。
 にこりと微笑みかけてから、僕は携帯電話をポケットに仕舞い―――何だか手を離すのが惜しい気がして、それをそっと握り込んだ。
[20071106] ◆TEXT ◆TOP