手と手を繋いだら
「うわ、降ってきやがった」
彼の声にふと顔を上げると、彼はそれまで座っていたパソコンの置いてある団長席から立ち上がり、大きな窓の前に立ったところだった。珍しく、部室には僕たち2人以外は誰もいない。
僕も読んでいた詰め将棋の本を長机の上に伏せ、窓に近づく。
いつの間にか窓の外は暗い雲で覆われていた。細い糸のようだった雨が、すぐに大粒の激しいものに変わってゆく。
「俺、傘ねえんだよな」
「夕立、ですね。すぐ止みますよ」
隣に立つ彼に微笑みかけるが、彼はじっと外を見詰めている。その横顔に幾分翳りが見えて、僕は僅かに首を傾げた。
何を見ているんだろう。不思議に思ってもう一度窓の外に目を遣るが、そこには視界を奪う滝のような雨しか見えない。
「………なんか、例のアレみたいだな」
呟かれた言葉に漸く思い至った。
閉鎖空間。
確かに、暗灰色の空に囲まれたあの場所は、今の風景に近似している。暗黒までには至らない、しかし太陽の光はない、閉ざされた薄闇の空。
彼は涼宮ハルヒと共にここで発生した閉鎖空間に閉じ込められた。その時の事を思い出しているのだろう。
「あの青い巨人が出て来ても不思議じゃねえな」
「その時は僕が倒して差し上げますよ」
「お前、あの時は何もできなかったじゃねえか」
指摘されて、軽く肩を竦めた。確かに僕は、あの時何も出来なかった。朝比奈みくると長門有希からの言付けを伝えただけだ。あの時ほど、自分の無力さを思い知った事はなかった。
あれは普通の閉鎖空間ではなかったから。そう言うのは簡単だったが、あえて何も言わずにおいた。今更何を言っても言い訳にしかならないと思ったからだ。
あの時。
彼がいなければ、どうなっていた事か。想像するとぞっとする。涼宮ハルヒと彼のいない、神に見放された世界はどういう結末を迎えていただろうか。そして彼を失った僕は。
「………どうもなりゃしねえよ。雨なんていつか止む」
まるで僕の心を読んだかのように、彼が少し早口でそう言った。もしかしたらそれは彼自身の嫌な想像を払拭するためのものだったのかも知れない。
だけど僕には救いの声に聞こえた。彼が世界の鍵だからとかそういう理由ではない。彼の、言葉だから。
ふと、彼が僕を見た。視線が交錯する。彼の瞳に吸い込まれそうになる。そして僕は、僅かに低いところにある、彼の唇にそっと自分のそれを近づけ―――
「ストップ」
気配を察知したのだろう、彼の掌に唇を塞がれた。
「お前、ここどこだと思ってやがる」
「いいじゃないですか、誰もいないんですから」
「馬鹿、そういう問題じゃない」
怒りを含んだ目で睨み付けられて、仕方なく両手を挙げて少し体を離した。苦笑を浮かべると、彼が軽く溜息を吐く。
「お前な、やめろよなそういうの」
「せっかくあなたと2人きりになれたのに、このチャンスを活かさないでどうするんですか」
「そうじゃない」
苛立ったように吐き捨てた彼が、真っ直ぐに僕の瞳を射抜いた。
「とっくに終わった過去の事まで思い返して、自分を責めるような真似すんな」
言葉が、出て来なかった。
ああどうして、こんなに、彼は。
強い人だ、と思う。強くて、優しい人だ。
ともすれば救いのない泥沼に自ら足を突っ込もうとする僕を、何の衒いもなく、ごく自然に救い上げてくれる。
彼に出会い、彼と共に歩くようになって、僕がどれだけ救われたことか。
「だからそんな顔すんなって」
僕は一体、どんな顔をしていたのだろうか。いつもの僕なら笑顔が癖のように簡単に出せる筈なのに、自分の表情さえわからない。
しょうがねえな、と溜息を吐いた彼は、左の掌を僕に向かって突き出した。
「手、くらいなら、繋いでやる」
すぐには反応できなかった。差し出された掌に視線を落とし、彼を見て、それからゆっくりと右手を上げる。指が軽く触れ合った瞬間、強い力で握り込まれた。
少し驚いて反射的に手を引こうとしたが、しっかりと指が絡められていてそれは適わなかった。
じわりと、彼の体温が伝わって来る。少し汗をかいているかも知れない。でもそれを不快には思わず、寧ろ心地よく思えて、僕も指先に力を籠めた。
彼はここにいる。この世界で、僕と、手を繋いでいる。
「………僕、今なら神人が10体出て来ても倒せそうな気がします」
「多すぎるだろ、幾らなんでも」
呆れたように彼が笑って、だから僕も自然と笑みを浮かべる事が出来た。
だって僕は、本気でそう思っていたのだ。彼が僕に、力をくれたから。
そうして手を繋いだまま、暫く黙って窓の外を見ていた。時折思い出したように彼が口を開き、僕がそれに答える間も、手は離さなかった。
次第に雨足が弱まって来る。あと30分もすれば、再び太陽が顔を出すだろう。
「………っと」
突然訪れた、もうすっかり慣れてしまった悪い予感。そしてポケットの携帯電話が微かに震える。空いた手で携帯電話を取り出してみれば、予想通り、お出ましだ。
僕の様子で気付いたのだろう、彼が窺うように視線を合わせて来る。肩を竦めて、その疑問に応えた。
「すみません、閉鎖空間が発生したようです」
「何だ?ハルヒの奴、夕立に降られたからとかいう理由じゃないだろうな」
「流石にそれはないと思いますよ、もう雨も止みそうですし」
もう暫くこのままでいたかったけれども、そういう訳にはいかない。名残惜しく思いながら少し手の力を緩めると、一瞬だけ強く握られてから、ぱっとその手が離れた。
こういう切り替えの早さは、とても彼らしい。
「傘、ないんですよね?車で送りましょうか?」
「いや、いい。もう止むだろ。それよりさっさと行けよ、机の上は片付けておいてやるから」
「………わかりました、ありがとうございます」
彼から離れて、床に置いたままの鞄を手に取る。扉の前で振り返ると、彼は窓の外に顔を向けたまま、さっきまで繋いでいた手をひらひらと振った。
「頑張れよ、超能力者」
「………はい!」
笑顔でそれに応えて扉を閉める。
早足で階段に向かいながら、彼の温もりが残る右手を握り締めた。
仕事が終わったら、彼に電話をしよう。
そう遅い時間にはならないだろう。今日はすぐに片が付きそうだ。
だって僕は今、向かうところ無敵なのだから。