彼の名前を
冬の日没は早い。
いつものように彼とオセロをし、いつものように負けて、いつものように5人で帰途について、マンションに辿り着いた時には辺りは既に暗闇が支配していた。
誰もいない部屋の玄関を開け、廊下を通り抜け、暗い部屋に明かりを点す。
鞄を床に投げ出し、リビングのソファに腰を下ろしたところで、深い溜息が漏れた。
疲れているという自覚はある。
ここのところ涼宮ハルヒの精神は安定していて、閉鎖空間の発生はごく稀だ。
なのにあの戦いの場に赴いた後よりも疲労感が全身を圧迫するのは、疑いようもなく、彼のせいだ。
自分が彼に許されない想いを抱いている、と気付いたのはいつの事だっただろうか。
明確な線引きができる訳ではない。ただいつの間にか、彼を目で追うようになった。彼が涼宮ハルヒの鍵だからという理由ではなく、ごく個人的な感情で、彼から目が離せなくなった。
それからはずっと緊張と不安と衝動に付き纏われている。
この想いを誰にも気付かれてはいけない。いつものように振る舞い、いつものように笑って―――悟られないように細心の注意を払わなくてはならない。
そしてそんな演技に疲れ果て、時々どうしようもなく全てをぶちまけてしまいたくなるのだ。
例えば、下り坂の途中、自分の紡ぐ言葉に耳を傾けていた彼と、視線が交錯したとき。
例えば、隣り合う肩と肩が、ほんの僅かに触れ合ったとき。
そんな些細な一瞬に、胸の内を曝け出し、彼に触れたいと、どうしようもなく願ってしまう。
いつもの笑みの下で、僕がそんな事を考えていると彼に知れたら―――どうなるだろう。
決まっている、答えは簡単だ。侮蔑の眼差しを向けられるか、拒絶に肩を震わせるか、ああもしかしたら心の優しい彼の事だから、狼狽して顔を背けながらも、性質の悪い冗談だと受け流してくれるかも知れない。
どちらにしても、僕の想いが遂げられる事はない。これは、規定事項だ。
立ち上がり、床に積み重ねられた書類の中から、茶封筒を引き抜いた。彼に出会う前、機関から渡された、彼に関する書類だ。
クリップで留められた明らかに隠し撮りとわかる彼の写真。僕が持っている、唯一の彼の写真だ。
そしてそれを捲ればまるで履歴書のように表にされた彼の情報、一番上にはまだ一度も呼んだ事のない彼の名前が書かれている。
彼の、本当の名前。
僕が彼を何らかの呼称をもって呼ぶとすれば、涼宮ハルヒや朝比奈みくるが呼ぶように、本人は嫌がっているがすっかり定着してしまったあだ名で呼ぶのが自然なのだと思う。
なのに僕は、そのあだ名ですら彼を呼んだ事がない。
彼を呼ぶなら、ただ1つの本当の名前で呼んでみたいと―――そう、願っている。
たった一度でいいから、彼の名前を。
「―――………っ」
そこに書いてある名前を口にしようとして、声を出す事が出来なかった。
ああ、何ていう事だろう。
もしも、ただ一度だけ許されるのなら。
―――彼を目の前にして、呼んでみたいと。
そんな、浅ましく儚い希望に縋りつくようにして生きている。
そんな日は、永遠に来ないとわかっているのに。
「………僕は、馬鹿だ」
呟いた言葉は、頼りなく床に滑り落ち、そして消えた。