オセロ
「僕は、あなたのことが好きなんです」
そう言った古泉は、世界の崩壊を目の当たりにしたような、絶望的な表情を浮かべていた。
夕暮れ時、部室の机を挟んで、古泉は真っ直ぐに俺を見ている。
今この部室には俺達2人だけだ。ハルヒも、朝比奈さんも、珍しい事に長門までもが今日はいない。たまには女の子同士でぱーっとやりましょう、とハルヒが朝比奈さんと長門を連れて街まで繰り出したからだ。何をするかは知らんが、ハルヒにしては健全な女子高校生らしい発想と言えるだろう。普段からこうだったら俺も随分と楽ができるんだが。
それはさておき、ハルヒ達女性陣のいなくなった部室で、俺がいつも通り古泉と流石に飽きてきたオセロをし、5戦5勝を期し、何でこの男は顔も良くて頭も良くてスタイルだって良い癖にボードゲームにだけはてんで弱いんだろうなと、取りとめもない事を考えながら適当に古泉の話に相槌を打っていたところに、唐突に古泉が冒頭の台詞を吐いたのだ。
何だお前。もう少し前後の脈絡ってものを考慮した方がいいんじゃないのか。どう考えても今までお前が喋ってたハルヒ神様論とその台詞は繋がりがないだろう。
「そうかい」
だから俺は、前後の脈絡ってものを重視して、今までのように適当な相槌を打ったのだ。
すると古泉は、僅かに眉を顰め、全てを諦めたような顔をした。
俺が思うに、古泉はいつも最悪の事態を想定して行動しているようなところがある。
そしてまさに今、何を想定していたのかは知らんが、奴にとっての最悪の事態が訪れた訳だ。常にない真剣な表情がそれを物語っている。多分古泉の頭の中では、ガラガラと音を立てて世界が崩壊していく様がまざまざと描かれているのだろう。
しかし、俺はといえば、一体何をそんなに深刻ぶる必要があるのかさっぱりわからない。
古泉が俺を好きだと言った。
―――だから一体何なんだ。
「あなた、僕の話を聞いていましたか?」
とってつけたような微苦笑を湛えながら、古泉が言う。相変わらずいけ好かない笑顔だ。
聞いていたさ。別に聞きたくもなかったが、2人しかいない部室で勝手にべらべら喋られれば、嫌でも耳に入ってくる。
いつものお前の回りくどい長台詞を要約すると、お前のバックについてる機関はハルヒを神様だと考えていて、お前はそれには疑いを持っていて、でもハルヒの力は絶対的なものだという事は明白で、それでお前は俺の事が好きなんだろう?
やっぱりどう考えても話が繋がってねえな。もう少し頭の良い奴だと思っていたが、違うのか、古泉よ。
「僕は友情ではなく、……恋愛感情であなたの事が好きだと言っているんです」
だから何でそれを言うためだけに、そう構えなきゃならないのかね。俺にはそっちの方が不思議に思えるよ。
とは言うものの、少なくともこいつにとっては本気で世界の終わりを覚悟して言った台詞なのかも知れないからな。ここは一応、言っといてやった方がいいのか。
「わかってる」
そう言って、いやこの言葉は正確ではないなと思った俺は、言い直す事にした。
「……というより、知ってたさ」
その時の古泉の表情は、はっきり言って見物だった。
目を見開いて、口をぽかんと開けて、いつもの優等生スマイルはどこに落としてきたのか、相当な間抜け面だ。
おいお前、幾らなんでもその面はないだろうが。化けの皮が剥がれまくってるぞ。お前の顔と頭とスタイルと人当たりの良さに騙されてる女共が見たら百年の恋も冷めるってもんだ。
とは言ってもまあ、古泉はどうやら隠しているつもりだったみたいだし、一世一代の大告白のつもりでもあったようだから、それを相手にさらりと流されちゃあな。間抜け面を晒したくもなるだろうよ。俺がお前でもそうするかも知れん。
そう考えると、俺の態度はあまりよろしくなかったのだろうか、と少し申し訳ない気持ちにもなりかけたが、しかし俺はやっぱり自分を弁護するね。俺に罪はない。
何故なら、俺はとうの昔に気付いていたからだ。いや、とうの昔ってのは言い過ぎか。気付いたのはここ3ヶ月くらいの事だ。
やたらと古泉の視線を感じた。俺がそれに気付いて古泉を見ると、奴は一瞬目を逸らそうとして、しかし思い直したようにいつものにやけスマイルでにこりと笑うのだ。
今まで何かと無駄にアイコンタクトを取ろうとしていた奴が急に視線を逸らそうとすれば、そりゃ誰だって気付くだろう、その異様な雰囲気に。
その癖、俺を見るのをやめようとはしない。こんな視線の集中砲火を毎日浴びながら、気付かないってのはよっぽどのもんだ。
だから古泉の告白は、俺にとっては今更な出来事だった。というより、やっとか、という思いの方が強い。
「知ってた……んですか」
「ああ」
呆然と呟く古泉に、頬杖をついてまた適当な相槌を打ってやる。
そろそろ世界崩壊のイベントは終わったか?こいつがこれだけ呆気に取られてるって事は、きっとこいつの頭の中の神人もぼんやり何もせずに突っ立ってるんだろうぜ。今なら体当たりするなり切り刻むなり、倒し放題だ。まあ、倒す側の奴がこの状態では何もできんだろうが。
「じゃあ、」
そこで一旦言葉を切った古泉は、僅かに目を伏せ、机の上に投げ出していた掌をぎゅっと握り締めてから、漸く何かを決心したように俺の顔を正面から見据えた。
「返事を聞かせて貰ってもいいですか」
だからそんな、今から核弾頭ミサイルの発射ボタンを押そうとしている一般人みたいな顔をする必要性は、どこにあるんだかね。
大体返事と言われてもだな、俺はまだお前が俺を好きだという事を聞いただけで、返事を求められるような言葉は何一つ聞いちゃいねえぞ。
「返事、と言われてもな……」
好きです、という宣言に対して、そうかい、と言う以外に、どんな返事があるっていうんだ。
さて何と答えるべきか、と思案していると、古泉は静かに腰を上げ、机の端を回って俺の隣に立った。
「あなたの気持ちを、聞かせて下さい」
俺は座ったまま、首だけを巡らせて古泉の顔を見上げる。
部室の窓からは西日が差し込んでいて、その眩しさに目を眇めた俺には、古泉の表情はよく判らない。
だけどまた、あの悲愴な表情をしているのだろうという事は容易く想像できた。
「俺の気持ち、ねえ……」
古泉から視線を外して、指先で弄んでいた白黒の駒を眺め、次に圧倒的に黒が優勢になっている盤面を眺めた。
オセロの駒というのはよく出来たものだと思う。どちらが表でどちらが裏なのかは知らないが、側面を見れば真ん中ですっぱり白と黒に分かれている。
人の気持ちというのはこうはいかないだろう。白か黒かなんて簡単に判別のつくものではない。間には必ずグレーが存在する。
しかし、俺は思うのだ。
グレーという色は、白とも黒ともつかない色ではあるが、それには段階があって、つまり。
白に限りなく近いグレーや、黒に限りなく近いグレーというものも、あるのだと。
その時に、どっちの色を出すかって聞かれれば―――こうする、しかねえよな。
ぱちん、と音を立てて、机の上に白の面を表にして駒を置く。
それを見ていた視線が、俺が立ち上がるのにつられたように動いて、俺の目の前で止まった。
軽く溜息を吐いて、腕を伸ばして、きっちりと締められたネクタイを掴んで、それを引き寄せて。
唇が重なった瞬間、目を閉じたのはそれがマナーだと思ったからだ。明らかに古泉の奴は、目を見開いていたがな。
触れ合ったのはほんの数秒、すぐに手を離して俺は元通り椅子に腰掛けた。
「まあ、そういうこった」
正直、古泉の事が好きかと問われると答えに窮する。
だけどこの3ヶ月、奴の気持ちとやらに気付いてからというもの、俺は俺なりに考えて、俺なりの結論を導き出していた。
好きかどうかは判らないけれども、男相手にこういう事ができる程度には好きなんだろうな、と。
3ヶ月もあれば男同士だとか世界だとかややこしい事にはそれなりに踏ん切りがつくもんだ。
だから俺が奴の告白を聞いた瞬間に感じたのは、何をそんなに恐れているのかという純粋な疑問だった。
古泉はどうやら俺の事が好きらしい。俺も、古泉の気持ちと同程度かどうかは別にして、古泉の事が好き、と言えなくも、ない。
じゃあ別に何の問題もないじゃないか。なのに古泉の奴はどうしてそこまで構えるのかと―――もっとも、これは結論が出たからこそ言える事かも知れんが。
しかしあれだ、本当にこういう事をするとは思っていなかった。柄にもない事をしちまったような気もする。
思えばハルヒと閉鎖空間に2人で閉じ込められた時も、相当後悔した。しかも今回は男同士。後から思い出せば耐えられなくなるかも知れん。しまった、早まったか。
既に襲ってきた後悔の念に苛まれながら、血液が上昇してきたのを誤魔化すように改めて頬杖をつき直す。ちらりと隣に視線を投げると、古泉は呆然とそこに固まっていた。何だこいつ。大丈夫か。
「おい」
俺の声に我に返ったのか、まるでゼンマイ仕掛けのロボットみたいな動きで、奴は俺を見下ろした。ギギギと音がしそうなくらいのぎこちなさだ。
それから男の癖に無駄に綺麗な指先で自分の唇を辿り、また俺に視線を合わせてくる。
やめろそういう真似をするな、こっちが居た堪れなくなるだろうが!
文句を言おうと口を開きかけた俺は、夕日に照らされた横顔が、今にも泣き出しそうにくしゃりと歪むのを、確かに、見た。
そしてその口元が、ゆっくりと笑みの形に動く。
「…………ありがとうございます」
いつも見せる忌々しいにやけた面ではなく、心から嬉しそうな笑顔。
だから俺はほんの少し、思ったね。また後悔する事になるかも知れないという事も踏まえた上で、だ。
―――こいつがこういう顔をするならまたしてもいいかな、なんてな。