二度目のキス

 夢みたいだ。
 世界が崩壊するに等しい恐怖と覚悟をもってした彼への告白、その返事は彼からのキスだった。
 まさか受け入れられるとは思っていなくて、しかも彼がキスしてくれるなんてこれっぽっちも考えていなくて、予想外の展開に今の僕は明らかに浮かれている自覚がある。
 何とか顔に出さないように自制はしているけれども、彼と2人きりになった時にはそれを隠し通せる自信は、あまり、ない。
 もっとも、あの告白からまだ1日しか経っていない今日の段階では、彼と2人になる機会というのは殆ど存在せず、僕はその時間を確保するのに必死にならざるを得なかった。
 例えば、朝比奈さんが着替えるのを彼と部室の外で待つ数分間。
 この時間のために、少し長引いたホームルームが終わると同時に大急ぎで教室を後にした。勿論、何事かと周囲を驚かせる訳にはいかないから走り出したりはしなかったけれども、早く部室に行きたくて幾分早足にはなっていたと思う。朝比奈さんの着替えより先に部室に着かなければ、この数分間は得られないからだ。
 彼が来るのが遅ければ何の意味もない行動ではあるが、僕はこの勝負に勝った。部室の扉をノックしてから開けると、そこにはもう長門さんと彼がいたのだ。涼宮さんは、どうやら今日は帰ってしまったらしい。
 既に癖のようになりつつある笑顔を浮かべ、2人に挨拶をしていると、すぐに朝比奈さんがやって来た。そして今、僕は彼と部室の外で並んで彼女の着替えを待っている。
 彼と2人になれた事が嬉しくて、僕は積極的に彼に話しかけた。とは言っても、その内容は他愛もない世間話だ。実は自分でも、何を話しているのかあまりよくわかっていない。

 僕は、彼を見ていられればそれでいいのだ。今までもずっと彼を見て来た。自分の秘めたる想いに気付いてからは、彼や、他の人―――特に涼宮さんに気付かれないように、彼を遠くから眺めていた。結局彼には気付かれていたのだけれど、これでも今までは抑えて来たつもりなのだ。その分、2人の時は思う様彼を見ていたい。

 でも黙って彼を見つめていれば、彼は恐らく嫌そうな顔をしてじろじろ見るなと言うだろう。だから、とにかく何でもいいから彼に話しかけようと思ったのだ。話しかけていれば彼の顔を見ていても不思議には思われない。それに彼が幾分投げやりにではあるが返事をしてくれる。時々は視線だけをこちらに向け、苦笑したり、眉を顰めたり、呆れた顔をしたりしてくれる。いつも見ていた筈の彼の表情なのに、それがとても新鮮に思えた。

「それで、3時間目の数学の時の事なんですが」
「古泉」

 殆ど無意識に口を動かしていた僕を遮った彼は、軽く溜息を吐いた。凭れていた壁から体を起こし、僕の方に向き直る。

「お前、さっきもその話してたぞ」
「え」

 しまった。あまりにも浮かれ過ぎていた。何を話したかがわからなくなるなんて、心ここにあらずと言ってしまったようなものだ。もしかしたら彼は気を悪くしたかも知れない。すみません、と謝りながら、理由を話そうかどうか迷って―――彼と、目が合った。
 少しつり上がった眸が僕を真正面から見据えていて、僕は息を呑む。

 今までこうして、彼と正面から視線を合わせた事なんてあっただろうか。

 冷静に考えてみれば、ない筈はないのだ。彼とはよく向かい合わせに座ってボードゲームをしていたし、昨日だってそうだ。そういう時に視線が交わる事くらい、普通にある話だ。
 なのに、まるで初めて彼と対峙しているような気分だった。
 叶う筈がないと諦めていた気持ちを、彼が受け入れてくれた。その彼の視線が僕を捉えていると思うだけで、嬉しくて、切なくて、幸せで、僕はどうにかなってしまう。
 夢みたいだ、と昨日から何度考えたかわからない事を、また思う。
 こんな気持ちを僕は知らない。世界が崩壊する日の事を考えた事はあっても、こんな日が来るのを想像した事はなかった。こんなにも嬉しくて、切なくて、幸せな気持ちは、初めてだ。
 ずっとこうして彼を見つめていたい。その眸を、その唇を、僕のものにしてしまいたい。

「お前、その顔……」

 ふと眉を顰めた彼が、また1つ、溜息を吐いた。僕は首を傾げる。
 そんなに酷い顔をしていただろうか。あながち否定できないところが、怖い。だって僕は、今十分に浮ついている自覚があるからだ。どんな顔をして彼を見ているか、我ながら考えるだけで恐ろしい。

「……しょうがねえな」

 呟いた彼に、何が、と聞き返す暇もなかった。
 彼は周囲に素早く視線を走らせると、少し伸び上がって、唇で僕の唇に軽く触れた。ほんの、一瞬の出来事だ。
 すぐに顔を離した彼は、何事もなかったかのように再び体を壁に預け、視線を廊下の窓に据えている。僕は驚いて、彼の横顔を呆然と眺めていた。

「………お前が、して欲しそうだったから」

 言葉を失った僕に、彼は平然とそう言ってのけ―――たように見えた。でもよく目を凝らすと、耳の端が少し、赤い。
 指先で、彼の温もりの残る唇にそっと触れる。
 夢みたいだ。
 でも、夢じゃない。

 彼が、キスをしてくれた。
 ―――二度目の、キスだ。

「お前な、言っとくけど他の奴らの前でそんな顔するなよ」

 僕の方を見ないまま、彼が言った。
 僕は慌てて顔を引き締める。どんな顔かはわからないけれど、僕の笑顔を見慣れている彼がそう言うのだから、恐らく笑顔、とは表現できないような顔をしていたのだろう。
 深呼吸を、1つ。
 それから癖になっている筈の笑顔を浮かべた。上手くできているかどうかはわからなかったけれども、ちらりと僕を横目で窺った彼が盛大に顔を顰めたので、多分成功しているのだろう。

「馬鹿、……俺の前ではいいんだよ」

 苦笑した彼の言葉があまりにも嬉しくて、切なくて、幸せで。
 僕は泣きたい気持ちをぐっと堪えて、今度は自然に、彼に微笑みかけた。
[20071114] ◆TEXT ◆TOP