スリーピング・ビューティー
彼が目を覚まさない。
オレンジの光が差す白い病室で、彼は昏々と眠り続けている。吊り下げられた点滴のチューブから、無色透明の液体が彼の体に流れ込んでゆく。
病院服から覗く胸板が静かに上下し、触れた手首はゆっくりと脈を打っているのに、彼の瞼は柔らかく閉じられたまま、もう3日になる。
3日前。あの瞬間の衝撃を、僕はどうしても上手く表現する事が出来ない。
あっという間の出来事だった。階段を下りていた僕の脇を何かがすり抜け、それが彼だと気付いた時にはもう手が届かなかった。そのまま彼が踊り場に後頭部を強く打ち付けた瞬間、誰かが叫んだ。それはもしかしたら僕だったのかも知れないし、涼宮ハルヒだったのかも、朝比奈みくるだったのかも知れなかった。
ぴくりとも動かない彼を見た時には、世界が終わったかと思った。
外傷はなし。内出血もなし。脳機能の異常もなし。体のどこにもあの衝撃を受け止めた痕跡はないのに、彼はもう3日間も眠り続けている。
このまま彼が目を覚まさなかったら。
一瞬そう考えて、瞼を閉じて首を振った。
そんな事がある訳がない。彼に限って、という願望めいた想いもあるが、何よりも、涼宮ハルヒがそれを許さないだろう。
彼女はこの3日間、ずっと病室に泊まり込んでいる。彼のベッドの脇に寝袋を用意して、医師の説得にも耳を貸さずずっと彼の傍についている。
僕とは違い、願望を実現する能力を持つ彼女が本心からそれを望んでいるのだから、彼は必ず意識を取り戻す筈だ。
だから僕は待っていればいい。彼女が眠りにつく間、彼女の代わりに交代で彼の目覚めを待っていればいい。
そう判っているのに不安なのは、もう3日も彼の黒い瞳を見ていないからだ。
彼の瞳が好きだった。いや、過去形にするのはおかしいだろう。僕は今現在も、彼の瞳に恋焦がれている。気だるげに半ば閉じられた瞳が、何よりも雄弁に彼の人となりを語るのを知っている。
その優しさを。その強さを。その瞳が微笑む時、僕も、涼宮ハルヒも、朝比奈みくるや長門有希だって、全てを許容する温かさに包まれるのだ。
神たる力を持つ涼宮ハルヒではなく、彼にこそ、僕たちは救われるのだと思う。
その瞳が見えないだけでこんなにも。
「どうか……早く、」
呟いたのは祈りにも似た言葉だった。彼が目覚めた時の為にと用意したリンゴと果物ナイフをサイドテーブルに置き、静かに立ち上がる。
彼の顔の横に手をつき、身を屈めて、
「目を覚まして、……僕を見て」
息の触れ合う距離で囁いてから、唇でそっと彼のそれに触れた。
触れていたのは、ほんの数秒だったと思う。我ながら自分勝手な願望だと自嘲しながら、再び椅子に腰を下ろした。
リンゴと果物ナイフを手に取って、皮を剥く。シャリシャリと涼しげな音が響き、赤い螺旋が伸びて、それを視線で追った瞬間。
視界の端で、彼が身じろぐのが判った。
思わず、手を止めた。黒く光る睫が震え、その瞼がゆっくりと開いてゆく。
「………スリーピング・ビューティー………」
無意識にそう呟いていた。そんなお伽噺みたいな事があるのだろうか。僕の我儘な願いが叶えられる事が、本当にあるのだろうか。
夢を見ているのかも知れない。そう思い、再びリンゴの皮剥きに戻る。だけどとても目が離せるものではない。
何度かゆっくりと瞬きをした瞳が、ぱちりと開くのを、確かに、見た。
「おや、やっとお目覚めですか。ずいぶん深い眠りだったようですね」
発した声は震えてはいなかっただろうか。平静を装い、手は動かしながらも、僕の心臓は早鐘のように打っていた。
彼が首を傾けて、僕を見る。その瞳に確かに自分が映り込んだのを確認して、全身から力が抜けそうになった。
「お早うございますと言うべきでしょうか。夕方ですけど」
浮かべた笑顔は、心からのものだった。生まれて初めて、神に感謝した瞬間だったかも知れない。
それから少しぼんやりしているような彼と話をした。どうやら記憶がないらしく、この3日間の説明をするには多少骨が折れた。それでも僕は、目覚めた彼と最初に話をできたのが自分である事に幸福を感じ、同時に彼女に対し一抹の罪悪感を覚え、彼が彼女を探しているのだと気付いた時には羨望すら抱いた。
忙しい事だ。自分の感情の起伏に苦笑しつつも、ほんの少し勿体をつけてから彼に彼女の存在を知らせてやる。もう自分には過ぎる程に幸せだったから、次は彼女の番だ。
「あなたが真っ先にしないといけないことがあるでしょう?」
笑顔のままそう言うと、そうだな、と頷く。
彼はベッドに座ったまま彼女に手を伸ばし、その指先が頬に触れる前に一瞬手を止め、僕にちらりと視線を投げた。
「スリーピング・ビューティー」
―――素早く呟かれた言葉に、心臓を握り潰されるかと思った。
「………………は、」
「……何でもない」
僕がまともな反応を返す前にそう言い捨てて、彼は徐に彼女の頬をつねった。
彼女が、目を覚ます。
寝袋に自由を奪われた彼女が立ち上がって叫ぶまで、僕は呆然とサイドテーブルに置かれた赤い螺旋を眺め続けていた。