恋に落ちたその瞬間

 左腕に嵌めた腕時計の針は、午前4時過ぎを指していた。
 久しぶりの閉鎖空間の発生だった。小規模だったにも関わらず、遠方だった事と、仲間の到着が遅れた為に予想外の苦戦を強いられ、マンションに戻って来たのは発生から10時間を経過した朝方だった。とはいえ、冬がすぐそこまで来ているこの時期には、夜明けはまだ遠い。
 重力に負けそうになる体を何とか引き摺って、玄関の扉を開ける。暗い廊下を電気も点けずに通り抜け、リビングのソファに腰を下ろした。
 途端に、疲労が体中に拡散したような気がした。やっとここまで辿り着いた、もう動かなくてもいいのだと安堵し、同時にもう動く気力など殆ど残されていないのだと実感する。
 制服のジャケットも脱がず、とりあえずきっちりと締められたネクタイを解きながら、手探りでローテーブルの上の小さなパッケージに手を伸ばす。
 残り少なくなった中から1本を取り出して火を着けた。煙を肺まで吸い込んで、ゆっくりと吐き出す。
 開け放たれたカーテンから差し込む月明かりだけが、この部屋を照らしていた。薄暗い空間に白い煙が漂い、そして消えてゆく。

 いつの間にか、癖になっていた。

 あの灰色の閉鎖空間での戦いが終わり、誰もいない部屋に辿り着くと、必ず煙草に手を出すようになった。きっかけは何だったのか覚えていない。蓄積した疲労を紛らわせる事ができるいい気分転換になるのではないかという軽い気持ちだったような気もするし、或いは何かに縋るような想いで手にしたものだったのかも知れない。
 確かなのは、この習慣が彼女―――涼宮ハルヒに出会った後に始まったものだという事だ。
 こんな所を誰かに見られたら大問題だという事は判っている。特に、涼宮ハルヒには見られる訳にはいかない。
 彼女は僕を、ステレオタイプな優等生だと思っている筈だ。意外と常識的なというか、真面目な彼女のことだから、未成年の喫煙など「優等生」にはあるまじき事だと僕を非難するに違いない。
 その非難が直接的なものかどうかはともかく―――これが、彼女の想像する「古泉一樹」という枠から外れる行為である事は間違いないのだ。
 今のところそのような事態には陥っていないが、いつか彼女が僕の住む場所を見てみたいなどと言い出した時の為に用意された、「謎の転校生」仕様の一介の高校生が住むには贅沢過ぎるマンションに、煙草の匂いが残っていては拙い。世界が崩壊するかどうかはともかく、閉鎖空間の発生は免れないだろうと容易く想像できる。

 そう判っているのに止められないのは、僕がこの生活に疲れてきているからなのかも知れない。
 3年前、彼女によって超常の力を与えられてから、彼女を中心とする世界での生活に。彼女の望む役柄を演じ、彼女の―――世界の安定だけを考え続ける生活に。





 疲労が完全には取れていない体に鞭打ちながら、学校への道を辿る。手足の先から染み込んで来るような冷たさに、もうすぐコートを出さなければならないだろうと思いながら歩いていると、背後から古泉、と名前を呼ばれた。

「おはようございます」
「よお」

 振り返り、笑顔を作る。彼は右手を軽く挙げ―――ようとしたのだろう、ポケットに突っ込んでいた手を動かしかけて、でも空気の冷たさに耐えかねたのか、結局不自然に肩を動かしただけに終わった。マフラーに顔を埋め、さみーな、と呟くように言う。
 どうやら彼は寒さに弱いらしい。出会ってから初めての冬を迎えるのだ、今までそんな事は知らなかった。

「何だお前、寝てないのか?目赤いぞ」

 指摘されて、無意識に瞼を押さえる。疑いようもなく、睡眠不足のせいだ。鏡を覗いた時に自分でも少し赤いなと思っていた。彼は、結構、目敏い。
 なら彼女の異変にも、気付くかも知れない。2日連続出動という事態は避けたいので、できれば彼女の「鍵」である彼の方で何とかしておいて欲しいところだ。
 その為には報告はしておいた方がいいだろうと思い、声を潜めて顔を寄せる。

「実は昨夜閉鎖空間が発生しまして。朝方まで時間を取られてしまいました」
「だからお前顔近いって」
「仕方ないでしょう、大きな声で話せる内容ではありませんから」
「だからって限度がある………って、お前、」

 睨むような視線が、急に変化した。暫し僕を真っ直ぐに見つめ、それから視線を逸らして何事かを思案するような顔をする。
 僕は僅かに眉を顰めた。
 一体何を考えているのか。彼が何かを言いあぐねている事は判る。しかし一体、何を。先の会話の中に、何か彼の心を乱すような要素があっただろうか。ここ半年の流れからすれば、閉鎖空間の発生がそんなに意外だったとは思えない。

「お前、ちょっと今から付き合え」

 目の前に迫った校門に目を遣り、それから彼は少し早足で歩き出す。その理由を考えながら、彼の後を追った。





 連れて行かれたのは、文芸部室のある部室棟だった。部室に向かうのだろうか。まだ予鈴には時間があるが、この時間に部室の鍵が開いているとも思えない。
 しかし彼は真っ直ぐに部室に向かい、部室の鍵が開いてないと判ると、そのまま屋上に向かう階段を上り始める。
 施錠されている扉の前まで行き、彼が漸く足を止めた。

「どうしたんですか、あなたらしくも……」

 ない、と続ける予定だった言葉が出て来ない。数歩の距離を一気に詰めた彼が、突然僕の肩に顔を埋めたからだ。
 あまりの予想外の行動に身動きが取れなかった。しかしそれはほんの一瞬の事で、彼はすぐ体を離して顔を顰めた。

「お前、煙草の匂いがするぞ」

 ぎくり、と体が強張った。そういえば、制服のジャケットを脱ぐ気力も殆ど残っていなかった。普段なら部屋に帰ればすぐに脱いでしまうというのに、今朝に限って。
 それでも、もう数時間は経っている。匂いなど殆ど残っていない筈だ。彼の嗅覚は余程優れているのだろうか。機関からの報告書にはそんな事は書いていなかった。まあ、そんな事まで書いてあれば機関の情報収集の方向性に大いに疑問を抱いただろうが。
 ―――この時僕は、2つ目の失敗をしていた事に、漸く気付いた。否定する事をすっかり忘れていたのだ。
 後から考えれば何とでも言い訳のつく事だった。新川さんでも多丸さんでも誰でもいい、誰か煙草を吸う人と一緒だったからと言うだけでよかったのだ。なのにタイミングを逃してしまった。
 この時点で、もう誤魔化す事はできなくなった。もっとも、彼に知られたところで彼女にさえ影響が出なければ何の問題もない、といえばない。ただ彼に口止めすればいいだけの話だ。
 何とかいつも通りの笑顔を取り戻し、肩を竦めてみせる。否定はしないという意思表示だ。

「まあ、多分気付かれない程度だとは思うが。余程近付かなきゃ匂わないし……俺は煙草が苦手だからな、少し敏感かも知れない」

 周囲を警戒しているのだろう、彼の声は潜められている。

「しかし意外だな、まさかお前が―――」

 言いかけて、ふと口を噤む。少し考えてから、彼は独り言のように呟いた。

「いや、どうかな……意外、のような気もするし、そうじゃない気もする」

 さてどうやって口止めするか、別に普通に涼宮さんには言わないで下さいと頼めば彼の事だから言わないでおいてくれるだろうが、などと考えていた僕は、彼の言葉に一瞬反応が遅れた。

「………………どういう意味ですか?」
「ハルヒの望む姿を忠実に体現しようとしているお前にしてはらしくない失態だと言いたいところだが、そうでないお前ならそれくらいの事はやりかねん」
「……すみません、意味がわかりませんが」

 彼は何が言いたいのだろう。回りくどいのは僕の専売特許だと思っていたのに。

「お前だってハルヒの事がなけりゃただの高校生だろうが。俺だって興味本位で煙草の1本や2本吸った事がある。まあ、結局俺には合わないと思って止めた訳だが。普通の高校生ってなそんなもんだ」

 言葉が、出て来なかった。

 ただの高校生。
 ―――僕が?

 3年前のあの日、突如として自分は異質な存在である事を知った。超能力としか思えない力が芽生え、その為に様々なものを捨てた。望むと望まざるを、問わず。
 恐らくこれから自分はずっと―――彼女の能力が消失しない限り一生、いわゆる「普通」の生活は送れないのだと思っていた。彼女に出会ってからは尚更だ。
 彼女を中心とする世界で、彼女の望む役柄を演じ続けなければならないのだから。

 なのに。
 彼はいとも簡単に、僕をただの高校生だと言ってのけた。
 彼女に選ばれたという事以外は特別何の力も持たない彼と同じ、ただの高校生なのだと。
 呆気にとられていると、彼は軽く握った拳で、とん、と僕の胸を叩く。

「優等生優等生してるお前より、そっちのがよっぽどいいさ」

 どくり、と心臓が脈打った。

 彼が、笑ったのだ。
 いつも―――少なくとも僕を見る時は、不機嫌そうに眉を顰めている事が多い彼が。
 年相応に、あどけなさの残る顔で。

「ま、ハルヒには黙っててやるよ。その代わり、1つ貸しだからな」

 立てた人差し指を僕に突きつける彼に、声を出す事もできず無意識に頷いていた。
 よし、と上機嫌で頷いた彼は、じゃあな、と言い捨てて踵を返す。
 ばたばたと階段を駆け下りていくその後ろ姿を呆然と見送り、高速で全身に血液を送り出している心臓の辺りに手を当てた。
 何が起こったのかと考え、そして僕は、その時漸く自覚したのだ。

 ―――この瞬間、僕は恋に落ちたんだと。

 始業5分前の予鈴が、どこか遠くで鳴り響いていた。
[20071105] ◆TEXT ◆TOP