明日、十時、動物園前広場にて[1]

『明日は十時に動物園前広場で待ち合わせしよう』

 幾許かの緊張を伴って目を通した受信メールには、その一文しか書かれていなかった。素っ気無い文章ではあるが、本人の暑苦しさとは反対に成歩堂からのメールはあっさりとしたものである事が多い。いつも通りの文体に安堵する反面、もう少し何か説明があってもいいのではないかと、苛立ち気味に思う。

 あの事件から一ヶ月。成歩堂が弁護士バッジを奪われる事になったあの事件から一ヶ月だ。

 この一ヶ月というもの、成歩堂からの連絡は一切途絶えていた。あの事件の前日、多忙な御剣が次に成歩堂と会えるのは一ヶ月も先だという事にぶうぶうと文句を垂れていた成歩堂だが、あの事件を経てもなお約束の明日という日を覚えていて、ちゃんと前日に連絡を寄越した事は褒めてやってもいいと思う。

 それでも、その間の連絡が一切ないというのはどういう事か。

 あの事件について、成歩堂からの説明は一切ない。話せない事もあるだろうし、未だ傷が癒えていないのだとすれば話したくないのかも知れないが、御剣は事件の事さえ人伝に聞いたのだ。話したくないなら話さなくてもいい。だけど一言くらい、何か言ってくれてもいいだろうと思うのは、御剣が成歩堂の恋人という立場に位置する人間だからという理由だけではなく、十五年来の親友として、暗闇の中の迷路に迷い込んでいた御剣を救ってくれた恩人として、成歩堂の事を心から心配していたからだ。

 それでも本人が話さない事を無理に聞き出そうという気にはなれず、いつか話してくれる事もあるだろうと待ち続けて一ヶ月。

 漸く来たメールは至ってシンプルなもので、何事もなかったかのように一ヶ月前の約束を履行しようとする態度に、ああきっとこの男は何も変わっていないのだと安堵すると同時に、たった一言でもいい、事件の事に触れなくてもただ元気だからという他愛もない言葉でもいい、何かを言って欲しかったと苛立ちを覚える。
 それでもやはり一ヶ月ぶりの逢瀬に心が浮き立つのも事実で、成歩堂と付き合う前までは想像もしなかった感情を幾分持て余しながら、いつもより少し早く眠りに就いた。





 翌日は空が綺麗に澄み渡っていた。土曜日の動物園前広場は家族連れで賑わっている。
 成歩堂にはよく御剣の感覚は世間一般からずれている事が多いなどと言われるが、今ここで自分が異質な存在である事には流石に気付いていた。

 何故ならば、外で会う時には大抵が街中でショッピングだとか映画だとか、いい年をした大人の男二人組がいても違和感のない場所に行く事が多いので、成歩堂の指定した待ち合わせ場所を不思議に思っていた御剣は、成歩堂はあの事件の捜査を諦めていないのではないか、一ヶ月ぶりに連絡を寄越したのは約束したからという理由だけではなく捜査を手伝って欲しいという事なのではないかと考え、いつもの赤のスーツにクラバット、という仕事スタイルで動物園前広場の噴水横に立っているからである。周りを見渡してもそんな姿をしている人間は誰もいない。誰かと待ち合わせをしているのであろう、御剣と然程年齢が変わらないと思われる一人で立っている男性でさえ、カジュアルなジャケットにジーンズという格好なのだ。

 居心地の悪さを覚えながら、柱時計に目を遣る。九時五十七分。時間に厳しい御剣の所為で遅刻というものをしなくなった成歩堂がそろそろ姿を現す頃合だ。

「御剣!」

 背後から声を掛けられて、御剣は僅かに頬を緩めて振り向いた。一ヶ月ぶりに聞く声だ。少し弾んだそのトーンは以前と少しも変わっていない。
 視線の先で、成歩堂が笑っている。少し額に汗を光らせて、ごめんごめん待たせちゃったかな、と頭を掻く。
 名前を呼ぼうとして、次の瞬間違和感に眉を顰めた。
 スーツ姿の御剣とは対照的に、成歩堂はセーターにジーンズ、スニーカーという出で立ちだ。何だ今日は捜査じゃなかったのか。いや、それよりも何よりも。

「ほら、挨拶して」
「はじめまして!成歩堂みぬきです!」

 成歩堂に手を繋がれていた、恐らく年の頃は綾里春美と同じ位であろう少女が満面の笑みを浮かべてぺこりと頭を下げた。
 咄嗟に反応する事が出来なかった。今この少女は何と言ったか。はじめまして?いやそこに問題はない。確かに御剣とは初対面だ。そうではなくて。
 呆然としてその少女を見下ろす。ピンクのカーディガンに白のワンピースという愛らしい姿をしたその少女は、にこにこと笑顔のままだ。

「御剣、紹介するよ。みぬきって言うんだ」

 そうじゃない。御剣が聞きたいのはそういう事ではなくて――

「事件の依頼者の娘でさ、本人が失踪しちゃったから僕が引き取る事にしたんだ」
「…………」
「御剣にもその内会わせようと思ってたんだけど、みぬきが動物園に行きたいって言い出してさ」
「…………」
「ほらここのところバタバタしててどこにも連れて行ってあげられなかったし……ちょうどいいかと思って」
「…………」
「ところでどうしてスーツなの?久しぶりにそのスーツ姿見られて嬉しいけどさ、御剣ちょっと浮いてるよ」
「……成歩堂」
「ねぇパパ、この人が新しいママ?」

 低く呟いた御剣の前で上げられる無邪気な声。
 その瞬間、元々頑丈とは決して言えない堪忍袋の緒がぷっつりと切れた。

「キサマはどうしてそういう重要な事をもっと早く言わんのだッ!」

 家族連れで溢れ返る平和な広場に、勢い良く引き抜いたクラバットを地面に叩き付けた御剣の怒号が響き渡った。





→NEXT
[20090908] ◆TEXT ◆TOP