明日、十時、動物園前広場にて[2]

 可愛いなあ。
 思わずそう呟いた視線の先には、御剣の姿がある。

 愛らしい沢山の動物達に囲まれ、いつものマジシャン姿とは違う新しい洋服に身を包んだみぬきを連れているにも関わらず、成歩堂が目を奪われるのは男である恋人の姿だ。
 赤のスーツは見慣れたものではあるが、今日の御剣は最早トレードマークともいえるクラバットを外している為、新鮮に映る。成歩堂の態度にキレた御剣が地面に叩き付けたクラバットは、直後に我を取り戻したらしい御剣に拾われて、今は彼の鞄の中だ。
 確かに何も言っていなかった自分が悪いのだが、休日に動物園前広場で待ち合わせ、といういかにもな状況なのに、捜査をするのだと信じ込んできっちりとスーツを着込んで来る生真面目さがとてもいとおしい。
 その御剣は、初めこそみぬきが指差す猿を目で追いながら、たまにみぬきにどこかぎこちない引き攣った微笑を向ける、といういかにも初々しい態度を見せていたが、彼の元来の優しさなのか、それともみぬきの人懐こさが功を奏したのか、今や仲良く手を繋いで麒麟の柵の前で笑顔で何か話している。
 それを少し離れた位置で見ている成歩堂は、幾許かの嫉妬を抱いた。

 みぬきを引き取ってから二週間、漸く父親の自覚も持ち始め、血は繋がっていない我が子を愛しいと思う気持ちは本物なのに、御剣の笑顔を独占しているという事実にぶすくれたい気分になる。
 勿論みぬきと御剣が仲良くなってくれるのは嬉しい。その為に連れて来たのだし、今後も付き合っていくのだから二人が本当の親子のように仲睦まじくしているのは成歩堂にとって喜ぶべき事の筈だ。
 だけど御剣がみぬきに向ける笑顔は十五年もの間御剣を追い掛けて来た成歩堂でさえ滅多に見る事の出来ない種類のもので、それをたったの一時間でものにしたみぬきに嫉妬も抱こうというものだ。

 次は白熊が見たいというみぬきのリクエストに応え、二人は移動を始めた。最早御剣の視界には成歩堂の姿はこれっぽっちも映ってやしない。それが癪に障り、成歩堂は二人を小走りで追いかけ、御剣の空いた左手に強引に指先を絡めた。

「な、何をするっ」
「いいじゃん、ちょっとくらい」
「キサマが繋ぐのはこちらの手であるべきだろう!」

 成歩堂の指を振り払って、御剣はみぬきの空いた右手を指差した。
 視線を落とせば、無邪気な顔をしてにこりと笑ったみぬきがその手を差し出して来る。

「…………弱いなぁ、僕も」

 御剣とみぬきの二人からそう言われては断る術など持ち合わせていないのだ。
 そっとその小さな手を握ると、みぬきは満面の笑顔を見せ、ふと顔を巡らせて御剣を振り仰いだ。

「ママ、早く白熊見に行こう!」

 御剣は途端に眉間に皺を寄せた。その気持ちは判らなくもない。男である御剣は、ママ、と呼ばれる事に抵抗があるのだろう。

「みぬきくん、その、……ママというのは止めて貰えないだろうか」
「どうして?だってパパの奥さんなんでしょう?パパが御剣は大切な人だからちゃんと紹介するねって言ってたもん!」

 御剣の視線が漸く成歩堂を捉える。少し戸惑ったような、だけど決して怒ってはいない表情で成歩堂を軽く睨み付け、軽い溜息と共に視線を逸らす。
 何か思案するような仕草を見せた後、御剣はみぬきの手を離さないままその場で腰を落とし、みぬきに視線を合わせた。

「確かに、私は成歩堂と付き合っている。だが、私は男なのだよ。ママというのは普通女性に対して使う言葉だ」
「じゃあ三人目のパパだね!御剣パパって呼べばいい?」
「……ああ、それでいいだろう」

 そして御剣は再び立ち上がり、みぬきの手を引いて白熊の柵の方向へ足を向けた。
 呆然とその場に立ち尽くしていた成歩堂は、手を繋いだままのみぬきに引っ張られ、漸く足を動かし始める。

 ───驚いた。

 確かに御剣と付き合っている事をみぬきに説明してはいたが、御剣はみぬきに二人の関係を話した事を怒るのではないかと思っていた。他人に二人の関係を知られる事を好まない御剣の事だから、私と成歩堂はただの友人だと言われる事も覚悟していたのだ。その際にみぬきにどう説明するかは後で悩めばいいやと軽く考えていたので、正直みぬきがその件に触れた時は肝を冷やした。
 だけど、御剣は二人の関係をあっさりと認めた。みぬきの教育上それが良いのか悪いのかは不明だが、少なくとも御剣はみぬきを成歩堂の子供だと認め、これからもみぬきと、そして成歩堂と付き合っていく覚悟を決めてくれたという事だ。

 幸せだなあ、と呟く。

 その言葉は喧騒に紛れて恐らく誰の耳にも届かなかっただろう。だけど御剣だけには伝えたいと思った。一ヶ月間何の連絡もせず、突如として子供を連れて現れた成歩堂に怒りを露にしたけれども、結局のところ成歩堂を受け入れてくれた御剣に。
 のそりのそりと歩く白熊の柵を前に、前がよく見えないのであろうみぬきがぴょんぴょんとその場で飛び跳ねている。少し困惑したような顔をしていた御剣は、周囲をきょろきょろと見回し、一組の家族連れに目を止めた。暫しそれをじっと見詰め、それから何かに納得したように頷くと、みぬきを優しい仕草で抱き上げて肩に乗せる。
 何故だか、涙が出そうになった。
 この一ヶ月色々な事があった。まだやるべき事は山のように残っている。それでもみぬきと御剣がいれば、どんな困難でも乗り越えていける。逆転劇はこれからなのだ。

「パパ、白熊だよ!おいしそう!」
「…………おいしくはないんじゃないかなぁ」

 はしゃぐみぬきに曖昧な返事をして、二人に近付いた。みぬきを肩車したままの御剣に近付き、好きだよ、と声には出さず唇だけで想いを伝える。
 その言葉が聞こえた筈はないのに、ふとこちらを振り向いた御剣が柔らかく美しい微笑を見せた。

 十五年間御剣を追いかけ続けて来て、初めて見た笑顔だった。

 じわりと目頭が熱くなって、成歩堂は咄嗟に顔を伏せる。パパちゃんと見なきゃ駄目だよ、というみぬきの言葉には従えそうもなかった。





「ごめんね御剣、重くない?」
「平気だこれくらい」

 散々はしゃぎ回ったみぬきは、事務所に帰って来るなりソファに座る御剣の膝の上に頭を乗せて寝息を立て始めてしまった。所謂膝枕というやつだ。
 僕だってまだして貰った事ないのに、と思うと再びみぬきに対する嫉妬心が芽生えるが、そのあどけない寝顔を見ていると起こす気にもなれない。
 御剣の白い指先がそっと幼い少女の髪を梳く。軽く溜息を吐いて静かに隣に腰を下ろすと、柔らかな視線が向けられた。

「可愛いな、みぬきくんは。キミも随分可愛がっているみたいじゃないか」

 そう言った御剣が指し示したのは、みぬきの真新しいピンクのカーディガンと白のワンピースだ。いかにもおろしたて、という雰囲気を醸し出しているそれは、確かに今日御剣に会わせる為に成歩堂が買い与えたものだ。舞台衣装であるマジシャン服で動物園なんかに出掛けては何か芸を求められかねない。

「まあね。少し生意気なところもあるけど、やっぱり可愛いから」

 流石敏腕検事というべきか、そんな些細な事にまで気付かれては苦笑を返すしかなかった。実際にみぬきの事は溺愛と言っていい程に可愛がっている。ただ少し、御剣とみぬきの仲に嫉妬はしたけれども。

「ごめんね、御剣」

 同じ台詞を繰り返した成歩堂を、不思議そうに御剣が見る。少し目線を逸らして、独り言のように呟いた。

「一ヶ月、全然連絡しなくて。色々と忙しくてさ、御剣に何も言ってない事すらも忘れてた」
「ああ、その話か」

 御剣は一瞬膝の上のみぬきに視線を落として、それからどこか遠くを眺めるような目をした。

「確かに今日は驚いたが……キミの事だ、何かと戦っているのであろう事は予想していた」
「…………」
「いつかキミが話したいと思った時に話してくれればいい。ただ、今日のような場合は事前に一言くらい何か言ってくれてもいいと思うが」

 こんな事ならスーツなど着て来なかったぞ、と小さく呟かれた言葉に思わず吹き出す。途端にむっと眉を顰める御剣にごめんと仕草で謝ってから、その耳元に唇を寄せた。

「好きだよ、御剣」

 ゆっくりと首を巡らせた御剣と視線が絡み、互いに顔を近付ける。
 唇が触れた瞬間、何かいい夢でも見ていたのだろうか、御剣の膝の上でみぬきの顔が小さく綻んだ。





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[20090908] ◆TEXT ◆TOP